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第四章前編: 健之介の弱さ〜高校生〜

渋谷駅を宮益坂口で降り、明治通りを北へと上る。
そして、宮下パークを左に眺めながら、信号を少し過ぎたところで進路を北西路地へと伸ばす。
すると、100m程足を進めた先に、とある学校が佇んでいる。

2022年現在、偏差値70を超える日本屈指の中高一貫校。
正式名称「渋谷教育学園渋谷中学高等学校」  通称「しぶしぶ」。

健之介の母校である。

偏差値がここ10年でインフレしたとはいえ、健之介が通っていた当時も、偏差値60を超える立派な進学校だった。

そんな大層立派な学校で、2008年4月、高校生1年生になった健之介は、ハリのない日常に没落していた。

日々の会話はこんな感じだ。

「健之介! この後ボーリング行くっしょ?」
「っえ?」
「え、じゃねーよ! 昨日言ったろ? 青学の朋美ちゃんと桜ちゃんと一緒に行くって」
「あ…あ~。それね。…俺、部活あるからやっぱ止めよっかな」
「はぁ~!!? っざけんな、部活なんてサボれよ! な?」

毎日毎日、健之介にとってはつまらない、同じような会話だった。
その為、かつて健之介の瞳にあった輝きは失せ、下手な愛想笑いを浮かべながら友人モドキの言葉に相槌を打つ日々を過ごしていた。
健之介の瞳には、しぶしぶの同級生の事が量産型人間にしか見えず、そして自分もその量産された人間達の一員であることに、ほとほと失望していた。

その為、今では母校の躍進を鼻を高く見ている健之介だが、当時、唯の15歳だった何者でもない彼は、母校である「しぶしぶ」の事を、こう定義づけていた。

       『総勢1,200名を飼育している家畜小屋』

勿論、自分もその家畜の一匹だ。
国に、学校に、親に飼われている、どこにも羽ばたけない動物。
そんな動物園の檻の中での生活を、健之介は完全に嫌悪していた。

中高一貫の高校1年で勉学に力が入るはずもなく、かといって遊んでいても面白くない。
中学入学当初はダイヤモンドの様に輝いて見えた都会の生活も、今では何処にでもある石ころと大して変わらない。

カラオケ、ショッピング、ボーリング、お洒落なカフェデート。

青春と言われる遊びを全力で楽しみ、笑顔を弾けさせ、威風堂々肩で風を切って堂々渋谷スクランブル交差点を歩く同級生。

しかし対照的に、同じ事をやっているはずの健之介は日々、心を包み込みこむ黒く大きな靄と格闘していた。どんなに勢いを付けて殴っても、蹴り飛ばしても変わらずにそこに存在する靄。

子供の時はこんな事を感じなかったのに、どうしてだろう?
どんなに大きな建物の中で遊んでも、少しもワクワクしない。
小学生時代遊んだ梅の木公園での日々の方が、一兆倍ワクワクしていた。

群れを成す周りの人間(友達)が、皆仮面を付けた人形に見えた。

学校では、誰もが寄生できる友達を探し、孤独でない事に安心している。

一人でいるのが不安で仕方がなく、皆日々理由もない恐怖に脅えているようだ。
     

     『せいぜい優秀なお友達と仲良くしとけ』


随分昔に、親友から言われたその言葉が、ふとした瞬間健之介の心に浮かぶ。
いや、もう親友ではない。厳密に言えば、友達でもなくなった男が言ってた言葉。
それが浮かぶと、即座に健之介の心がギュッと締め付けられ、そしてその拘束が解放されると同時に烈火の炎の如く怒りがこみ上げてくる。

何なんだ、これは…

その感情の正体が掴み切れずに、悶々とした日々を健之介は送っていた。

同級生への不満足、自分の環境への不満足、そして嘗ての親友との後味の悪い別れ。
その全てが交じり合って、謎の固形物が健之介の心に一日、一日と沈殿していく。

そして溜まりに溜まったその膿が、あるとき爆発した。


      『こんなつまらない世界、抜け出してやる』


健之介の中の何かが、完全に吹っ切れぶっ飛んだ。


『俺がいけなのか? いや違う。こんなに俺を退屈させる、この環境がいけない。俺はここにいるべきじゃない。この場所は、俺の器に合っていない』

そう結論付けた瞬間、健之介の心にスッとした爽快感が生まれた。
元々、思考回路や価値観が日本的でないと自認していた健之介は、外の世界が見てみたいと、強烈に思い始めた。


そして彼は親に懇願し、留学を決意する。


健之介という人間は、一度決めたら人一倍行動が早い男だ。

数ある候補地の中から、行き先をニュージーランドにしたのは、アメリカやイギリスなんかより田舎っぽかったからだ。
当時、高校一年生の知識で、人の10倍の羊がいると知って何か意味なく惹かれた。
正直、ごみごみした生活はもうお腹いっぱいで、都会の喧騒を離れた生活がしたいと、15歳の少年は生意気にも懇願していた。


出発日は忘れもしない2008年7月5日。
家族や同級生が見送りに来てくれる中、彼らの目を盗んで、健之介はある一人の女の子と時間を共にしていた。

彼女は、前年のクリスマスから付き合い始めた所謂ガールフレンドだ。

学校の皆には交際している事は秘密にしていて、この日も皆に隠れて最後の時間を過ごしていた。

何処に行くでもなく、空港でグルグルと歩きながら、お互いの手の感触をキュッと確かめ合う。

そして徐に、人気のないベンチに徐に座る。無言の時間が続いた。

この時、健之介はもう確信していた。今日がその日なんだと。

多くの人が経験する、人生において特別で、最初の日。

健之介はそっと彼女の眼鏡を外し、口づけした。

その時、言ったのは、"I love you" の日本語訳みたいな言葉だ。
本当に彼女を想っていたのか、それとも状況に酔っていたのかは、審議は定かではないが、恐らくその両方なんだろう。


彼女とは、この日まで限定の付き合い方をしていた。

恋人が遠くへ離れ離れになる時、二つの選択肢があると思う。

一つはそのまま交際を続ける事。

そしてもう一つはそこでお別れをする事。

健之介たちは、後者を選んだ。

距離や環境が離れても、想いあってれば関係ないという青春のあり方も、勿論ありだとは思う。
映画でよく描かれるのはそうした純愛世界だし、時間を超えた永遠の関係というのはいかにもロマンチックだ。

一方、健之介とってその純愛路線は、自分とは違うレールである。

彼にとってその路線は、目的地とは真逆の方向に伸びている。
何故そうなのかと言ったら、それが三浦健之介という人間の生き方という他ない。
貴重な青春真っ只中の時間を、誰か一人に縛られ無駄にするのは、彼の性に合ってはいなかった。

したがって、多少の感慨はあれど、このキスを合図にして、健之介の気持ちは未来へと切り替わっていた。



名残惜しそうな彼女を連れ、迎えに来てくれている人々のロビーに戻る。
そこには、大勢の友達、家族、親戚が集まっていた。

早く日本から脱出したいと思っていた健之介も、その時ばかりはじんわりと暖かいモノが胸を包んだ。

そして一人一人と、別れの挨拶を交わした。

最後に、大きな声で皆に言う。


「じゃあ、行ってきます!」


健之介は、ニュージーランドへと旅立った。


飛行機はそれまでも何回か乗ったことがあったが、過去とは明瞭に違っていたのは、今度は自分ひとりという事だ。

抑えきれない胸の高鳴り。

飛行機に乗り込み、まだ見ぬ世界を目指し、離陸する。

飛行機は段々と加速していき、ゴォーという音共に、地上から浮遊する。
健之介の表情筋が、ぴくぴくと活発に動いていた。

この時。
比例定数1/4で上昇する飛行機に対し、健之介の心の比例定数は1/2を超えていた。

こういう時、感傷に浸ってセンチメンタルになったり、不安に襲われてナーバスになったりする人は多いだろうが、健之介にそういった感情は存在しない。

三浦健之介という男の気持ちの切り替えは早い。

飛行機に乗れば、もう彼の頭に日本での思い出は浮かばない。
窓の外、眼下の海を見ながら、彼に存在していた気持ちは胸から湧き出る高揚感だった。

こんな気持ち、いつ振りだろう? 

これからの生活を考えると、興奮で胸が一杯だった。
解放感が、半端ない。やっと、動物園の檻から抜けられた。

健之介の目に、しぶしぶにいた時の燻ぶった鈍い光は消え失せ、世界で一番強い光を放つ宝石を埋め込んだかの様な強烈な輝きが満ちていた。

彼の頭には先程キスした女の子の事も、日本にいたときにあれだけ脳を支配した嘗ての親友の存在も入りこめやしない。

純朴で挑戦的で溌剌とした、けれども繊細で扱いにくく危うさを秘めた青少年のその魂は、2008年の夏、太平洋上高度1000メートルを、時速1000キロのスピードで北半球の島国から南半球の島国へと、9000キロを超える大移動をしたのだった。


10時間を超えるフライトの後、健之介は、1年間過ごす事になる異国の地に足を踏み入れた。



疲れは全くない。

健之介は全身を使い大きく深呼吸をする。吸ったことのない大気の味が、とても美味しい。
息を吐き出すと健之介はニコリと笑い、手をぎゅぅ~っと握り、目をぎゅぅ~と瞑ると、そのままそのエネルギーを解放して言った。

「I'm here !!!!」

目に映るものが全て新鮮だ。

羊の群れ、ログハウス、両脇に広がる緑。
恐らく、日本で見ていたらなんて事のない風景だったが、そんな事は健之介には関係なかった。
彼には、何を見るかよりも、何処でみるかの方がその瞬間においては大切だったんだ。

いよいよ、健之介のニュージーランドでの生活が始まった。


まず最初に、健之介は2週間の直前合宿に参加することとなった。

滞在させてもらうホストファミリーはもう決まっていたのだが、その前に、14カ国の同世代の留学生が集まり、カリキュラムをこなしながら親睦を深めるという合宿だった。

一時間程バスに揺られて、合宿地に着く。

そこは、郊外にあるレジャー施設のような場所だった。
体育館、サッカーグラウンド、テニスコート、様々な運動施設が完備されていて、健之介は興奮する。

そして、当然ながらそこには、世界中の様々な国のティーンエイジャーが溢れていた。

黒い奴、白い奴、顔の堀の深い奴、のっぺりとしたやつ。身長が2m近い奴もいた。
日本人も何人かいたが、健之介の目にはあまり見えていなかった。

健之介の当時の英語能力は、控えめに言ってもからっきしダメだった。
しぶしぶのテストではいつも学年最下位を争っていた。
つまり、言語で一切コミュニケーションが取れない生き物に、健之介は囲まれてこの合宿を過ごすという事になる。

客観的に見て、絶望的な状況だろう。

なのに何故だろう。
そんな不安しか感じさせないような状況で、健之介の目の輝きは一切その光度を下げる事はなかった。

聞き取れない英語で、講師の外国人が何か説明を終える。
そして最後に、講師がなにやら大きな声で言うと、学生は一同に立ち上がる。
健之介に聞こえたのは、最後の「Let's go」だけだったが、周りの人と同じように足を進ませた。

屋外に出て、始まったこと。

それはサッカーだった。

「Let's play football!!!」

そう言って講師がボールを蹴りだす。
ボールを受け取った少女が呆然としていると、講師が続けて「Kick the ball!!!」と声を張り上げた。
少女はたどたどしくボールを近くにいる少年へと蹴った。ボールを受け取った学生は、先程の少女と同様に、困惑している。
そんな時だった。一際大きな声が、グラウンドに響き渡る。

「HEY PASS!!!  KICK PLEASE!!!  HEY!!!」

両手を振りながら、健之介がそうアピールする。

一瞬時が止まり、全員の視線が健之介に注がれる。彼はそれを気にすることなく、嬉しそうに「Pass Me!!!」と大きくジェスチャーをしていた。
周囲にいた少年たちはハッとする。

途端に、少年たちから一斉に「Pass!!」という怒号の嵐が巻き起こる。

そして、ボールは見違えるように颯爽と皆の足を渡り歩いた。
サッカーというボールを蹴って、相手のゴールにシュートするという単純な遊びで、その場にいた多くの人の気持ちが一つになっていく。

同時に皆の顔に笑顔が灯っていった。

皆、身振り手振りで感情を表現し、いつの間にか本気で喜び、悔しがり、楽しんでいた。
健之介もその一人で、こんなに純粋にスポーツを楽しめたのは、いつ振りかもわからない。
渋谷で、同じような価値観を持った同じような顔の集団の中で、窮屈な日々を過ごしていた彼にとって、その瞬間は生の喜びそのものだった。

健之介は躍動した。

長年やっているサッカーをする事になったのは、健之介にとって幸運だったかもしれない。

一番最初に声を出す勇気を彼に与えたし、如何なる事でも、やはりファーストペンギンというのは特別だ。
皆は健之介に一目置いただろうし、そうでなくても脳裏に三浦健之介という存在が刻まれた事は否定出来ない事実だった。

調子に乗った彼は、一人で見せ場を作り、最後のゴールだけを女の子に決めさせてあげたりもした。
日本でやったら確実にブーイングの嵐だろう。
いや、ブーイングさえもしない。その場では白けて、何人かは心の中で「気持ち悪い奴だ…」と根に持ち、その後陰湿な態度で接してくる事は、経験上分かっていた。

だがここニュージーランドの地では、喝采の拍手、叫びが巻き起こった。

「やるな~お前」 「惚れたぜ!」 「ケン! ナイスだったぜ」

そんな言葉をかけられながら、背中を叩かれ、首に腕をかけられ、ケツを足で蹴られた。
それが愛情表現なんて事は、言葉にしなくてもわかる。

そんな風にして、合宿一日目の皆との最初の時間が、最高の形で流れていった。

気づけば、もう日暮れが迫り始めていた。
講師の号令で、サッカーは幕を閉じた。

疲労感の中に圧倒的な充実感が入り混じり、健之介の胸は満ち足りていた。
ぐぅ~、と腹が鳴る。

健之介は言った。
           「腹減った~」

食堂に着き、料理が並ぶ席に座ると、健之介の隣に日本人の女子学生が座ってきた。

「お疲れ~」

そう話しかけてきたので、健之介は返答する。
「お疲れ! 腹減ったなぁ~」

彼女とは話した事は無かったが、同じ日本人同士だと、もう初対面の挨拶など不要だ。

程なくして、号令がかかり、二人もナイフとフォークを手に取った。
献立はやはり、パンと肉が中心で、日本ではあまり見慣れない絵面が広がっている。

慣れない手つきで二人はラム肉を切っていると、少女は言う。

「健之介君大活躍だったね。 どうだった? 初日の感想は?」

健之介は即答する。
「いや~、まじ最高だった! 超楽しかったわ」

その言葉に、彼女はため息をつきながら言う。
「いいな~楽しそうで。…私はもうクタクタで楽しい所じゃ無かったよ~」

「え?」

よくよく見ると、確かに少女は胃が痛そうな表情を顔に浮かべている。

話を聞くと、彼女は健之介とは違い、親に半ば強制的に留学を決められたらしい。
彼女は、「元々私は知らない人と一緒にいるのが苦手なんだよね~」とか、「スポーツも苦手だし…あれは軽いスポーツハラスメントだと思うよ」とか、ひたすらに愚痴を言っていた。

彼女の話に相槌をうちながら、健之介は自分とは真反対の境遇と感情を持つその少女を、何とも言えない気持ちで見ていた。

この時久しぶりに、日本にいたときの感情を思い出す。

一口目は飛び上がるほど美味しいと感じたラム肉のステーキも、彼女の愚痴が積み重なる度に固くなる様に感じられ、最後の一口は信じられないほど不味くなっていた。

食事が終わると、割り振られた部屋へと行く。

今日から二週間、ここが自分の城となる。
広い10人部屋のロッジだ。

そこには、日本人の姿はなかった。健之介は心で「よしっ!」と叫ぶ。
先程の少女との会話で、もう日本人には暫く関わりたくないと思ってたからだ。

横が香港人、下がスイス人、斜め横がドイツ人。
今までテレビの中でしか知らなかった現実が目の前に広がっている事が堪らなく嬉しくて、健之介は積極的に周りの人に話しかける。

皆が流暢な英語を披露する中、健之介だけがチンプンカンプンだった。
内容は正直半分も伝わらなかったが、健之介は一生懸命ジェスチャーを交えて話をする。

家族の話、国の話、友達の話、ガールフレンドの話。

その場の8割の人が、すでに初体験を済ませていて、健之介が「not yet」というと、その場は異様な雰囲気に包まれた。

「Really? Wow」 「No way!」 「That's not cool」

こんな言葉が溢れ、悔しくなった健之介は、昨日あった空港での話をした。

そして、クラスメイトとの別れの時に、彼女以外の二人の女の子からラブレターを貰い、今それがカバンの中に入っていると言ったら、少年たちの盛り上がりはピークに達した。

「ダサいなんて言って悪かった! お前は最高にクールだよ!」

そんな手のひら返しをくらいながらも、健之介は皆の前でラブレターを見せる事になる。

勿論、日本語を読めるのはその場では健之介しかいなかった。
ラブレターを貰ったうち一人の女の子とは、仲もよく、健之介も気になっていた子だ。彼女がいながらだから、浮ついた心である。女子がいたらバッシングも食らっただろうが、そこには男しかいない。

健之介の感情は、生きてきた中で一番といっていいほど盛り上がっており、何故か彼は皆の見ている前で、貰ったそのラブレターをビリビリに破いた。

その行動を見た者の中には、「女の子の気持ちを考えろ!」と本気で怒って胸ぐらを掴んできたイタリア人もいたが、その時の健之介は、その行動がカッコいいという意味不明な自信に満ち溢れていた。


この初日の出来事が示すように、健之介は合宿所で調子に乗りに乗った。


その後のサッカーでは、皆の指名でキャプテンに任命された。
もう1チームには、健之介よりもサッカーが上手かった唯一の男のノルウェー人が選ばれて、凌ぎを削りあった。

サッカーでキャプテンを務めた事もあり、女子からの人気も鰻登りだった健之介は、正直に言ってモテた。
この合宿に参加した日本人は殆どが女子学生だったのだが、健之介が活躍することで、同じ日本人が目立つのが嬉しい様子だった。

いつの間にか移動の度に日本人女子学生が健之介の周りを取り囲むような生活。


そんなある日。


サッカーで大活躍した日の夜中に、日本人の女の子のうちの一人が、健之介の部屋を訪れた事があった。

皆が寝静まった後で、健之介も寝ぼけ眼だったため、突然女子の顔が目の前に現れ動揺したが、「入って良い?」という小さく愛らしい声に、健之介にはコクンと頷く選択肢しかない。
心臓の出力がアップグレードされ、爆速で血液を体中に送り始める。

日本にいた時、彼女はいたが、当然お互いに実家暮らしで、ホテルにも行ったことがない健之介には、こういった体験は初めてだった。

正直先程まで、頭の片隅にもなかった目の前の女の子が、エマ・ワトソンばりに可愛く見える。

まるでドラえもんの道具で、誰でも美人に見える眼鏡をかけたみたいだ。
これが男の本能の力なのかと、健之介は生物の性(さが)を呪った。

数日前には、彼女に言葉に出すのも恥ずかしい甘い別れの決め台詞を吐いたのに、すでにこうなっている自分への羞恥心は、健之介にこの時存在していなかった。

とにかく、頭にあったのは、目の前のこの女の子をどう料理するか、という一点だけだ。
周りで寝ている友人の事も忘れている。

たどたどしいながらも、順調に身体的コミュニケーションが進んでいき、いよいよそれは本番を迎えようとしていた。

『よし、やるぞ!』

そう心の中で意気込んだ瞬間だった。オーバーヒート寸前のモーターに、氷水をブッかける様に、健之介の脳内にポーンとある疑問が降ってくる。

『あれ、これ、俺の初めてだよな? それが、こんなんでいいん…だっけ?』 

健之介の疑問は止まらない。

『ってか、コイツ……誰??』

ドラえもんのひみつ道具は突然姿を消し、先程までいたエマ・ワトソンが何処にも見当たらない。
キョトンと健之介を見上げる女の子。

こういう時に、方便でも使えるような男だったら、三浦健之介という人間はもう少し生きるのが簡単だったかもしれない。
だが彼にはその能力はなかった。

少し苦笑いをし、女の子を真上から見下ろしながら言う。

「ごめん…俺最初の人は好きな人がいいから、、無理だ」

ある意味、この状況でこのセリフを言えるのが、(良し悪しは置いておいて)健之介の才能なのかもしれない。その後のシナリオはお察しだ。


その後、この一件がどう処理されたのかは健之介は知らない。

もしかすると、女子の間では全員に広がって、一部で大バッシングを食らっていたかもしれない。
しかしながら、同室にいて、横目で健之介達の事を見ていた“同士”の中では、この事は伝説になり、毎夜の話のつまみとして使われたのだった。


光陰矢の如し。


やりたい放題の日々は、一瞬で過ぎ去った。

ここでの合宿の日々は、今でも健之介にとって忘れられない宝物だ。
スポーツを一緒にするとすぐに友達になれて、世界の広さが楽しすぎて、人生でも最高の思い出の一つになった。
だから、毎日汗を流し合い、笑いあった仲間と別れるのは正直寂しかった。

最終日。

グラウンドで最後のサッカーをし、皆、一人一人、お互いに向き合った。
夕暮れに沈むグラウンドの中。
健之介以外の皆が、青春の雫が零れ落ちないよう精一杯涙袋に力を入れている中、健之介一人が爽やかな顔をして言う。

「またな!」

クシャっと笑う健之介に、皆は一瞬呆気にとられた後、途端に不細工で美しい笑顔を浮かべる。
全員と抱擁し、そして新たな地へ向かうバスへと乗り込んだ。
健之介の瞳は、哀愁と希望が入り混じった、素敵で、名もない色に染まっていた。


バスの車内。


健之介は揺られながら、外の景色を眺めていた。
これから向かう先は、首都ウェリントンだ。

合宿所があったニュージーランドで一番大きな街「オークランド」から、都市から都市への移動だった。
凡そ650キロのその道は、例えるなら東京から大阪への移動という感じだ。


疲れもあったが、健之介は寝ずに、街の移り変わりをぼうっと見ていた。

健之介の目は、いつも通りに未来を向いていた。
彼の瞳には、深沈としながらも、静かな闘志が宿っている。
ここからが、本当の留学生活が始まるんだと、健之介は自分に言い聞かせる。
健之介に取りつけられた眼球は、前しか見えない様に神様に改造されている。

『これから先はもっと良いことが待ち構えている。
合宿の日々は最高だったけど、明日からの生活はもっと最高にする』

一人、窓の外、街外れの田園風景を眺めながら、健之介はそう誓った。

8時間程して、バスは目的の街へと到着する。
時刻は既に夜の9時。辺りは暗くなっていた。

バスを降り、辺りを見渡す。

海岸沿いの街だった。

今までいた場所より、さらに都会な街。

オークランドはニュージーランド最大の街ではあるが、合宿所があったのは郊外であったため、そこまで都会のど真ん中という感じではなかった。

一方、降り立った場所は、閑静な高級住宅街で、東京で言う世田谷の様な場所だった。

風に微かに潮の匂いを感じる。
健之介は、右手をギュッと小さく握ると、小さな声で言った。

「よっし、行くか」

目的の家へと、足を踏み出す。
歩きながら、健之介は漠然と考えていた。
合宿所の経験からして、健之介は、新たな地で大歓迎を受けると思っていた。
それが外国だと。
だから自分も、飛びっきりの笑顔で挨拶をしようと。

道中。
日本とはどこか雰囲気の違う海沿いをゆっくりと歩く。
ここがこれから暮らす街。
健之介は微笑み、いつの間にか口からはミスターチルドレンの歌が零れていた。

10分ほど歩くと、目的の家にたどり着いた。
健之介は、その家を見て呟く。

「……え? まじで?」

目の前には、明らかに普通の家のサイズではない、巨大な豪邸が佇んでいた。

でかい。これからここで暮らすのか。
ゴクリと唾を呑み込んだ。

巨大なもんを潜り、恐る恐る足を玄関前まで進める。

健之介は豪邸を見上げ、顔を下げると、深呼吸を一つ、大きくする。

右手のをゆっくりと上げ、そして意を決してインターホンを鳴らした。

ピンポーンと音がする。

しかし、それから数秒間、豪邸は静寂を保ったままだった。

健之介は首を傾げる。
そしてもう一度インターホンを押そうとした丁度その時。
奥から物音が聞こえてきた。

心臓がドクドク鳴る。

足音がドカドカ近づいてくる。

そして、ドアが開いた。

健之介は、準備していた自分が出来る最大の笑顔を作った。

「始めまして! 今日からお世話になる三浦健之介です! よろしくお願いします!」

頭を深々と下げる。

「…」

「…………」

『あれ?』

直ぐに大きな声と共にハグが返ってくると思っていた健之介だが、頭上からは静寂しか降ってこない。
恐る恐る顔を上げると、そこには無表情の大男が立っていた。
そして彼は表情を変える事無く言う。

「君が健之介か。どうぞ、中へ入りなさい」

「……あっ、…はい」

想定外のファーストコンタクトに、健之介は狼狽えた。

確かに、健之介の想定が甘かったのは間違いない。
外国人なら皆「ウェルカム!」で来るなんて言うのは、それは彼の幻想だった。
だから、そのファーストコンタクトの時の噛み合わない雰囲気がそのまま続いた時、健之介はそれに対処することが出来なかった。

誰からも、熱烈な歓迎は受けなかった。


夕食の時。
特に盛り上がりを見せることのない会話。
家族同士が、ローテンションでぼそぼそと話をしていて、健之介は理解ができずに、下手な作り笑いを浮かべることしかできなかった。
少し冷ややかな空気に、得意の大きなジェスチャーは使い物にならず、健之介は武器を無くした。

英語が分からない。何も、話が出来ない。

早口すぎるホストファミリーの会話に、英語を理解できない時の恐怖心が、この時初めて健之介に牙を剝く。

当然の様に、夕食後に雑談できるはずもなく、彼は与えられた部屋に足を運ぶ事しかできなかった。
幸先の悪い初日に、健之介の胸に不安が募る。

『こんなんで、この先やっていけるのか?』

『このホストファミリーは、ハズレなんじゃないのか?』

『明日からの学校は、大丈夫だろうか?』

合宿所では、スターを取り、無敵のマリオ状態だった健之介。
しかし場所が変わった瞬間に、スターどころか、キノコも無い。
一撃喰らっただけでゲームオーバーになる、貧弱な姿のマリオに変わり果てていた。

急に、外国に一人でいるという事実が、心もとなく感じる。
ニュージーランドに来て、一度も思い出したことの無かった日本での生活が恋しく思えた。
言葉は通じるし、親に気を使う必要もなかったあの退屈なはずの時間が、暖かく感じられる。
そして、健之介の胸には、《あいつ》の姿も浮かび上がってきた。

「…たかし」

ベッドの上で膝を抱え、健之介はそう呟く。

嘗ての友の事を思い出しながら、健之介はニュージーランドに来てから最も不安定な気持ちで眠りについた。


翌朝から、健之介の学園生活が始まったのだが、一度狂った歯車は、すんなりと噛み合う事は無かった。


健之介は、完全に自信を無くしていた。
昨夜、言葉が通じなかった事が大きな要因だった。
同じクラスに日本人留学生を見つけると、安心した。
まるで、合宿所にいた三浦健之介とは別人だ。

言葉が通じる事に安心し、日本人同士で過ごすことが多くなっていく。
教科書には、訳のわからない文字の連なり。
家では、居心地の悪い空気感。

健之介のフラストレーションが、急ピッチで積もっていった。
上手くいかない環境もそうだが、それ以上に自分自身の弱さにショックを受けていた。

別に大した困難じゃないはずだ。
ただ、ホストファミリーが、少し自分の思っていた感じじゃ無かっただけ。
嫌がらせをされているわけでもない。十分な食事も、寝床も、教育も与えてもらってるはず。

なのに、なんでこんなに俺は弱ってるんだ?

小学校の時の方が、苦しかったはずだ。
虐められて、親からは勉強を強要されて。
あの時だって乗り越えた。
そうだ、あの日々を思い出せ。
あの時はどうやって乗り越えた?

あの時は…

健之介の心がホロリと崩れる。
彼の口から、弱弱しく、そして切ない声が零れた。

「…たかしがいた」

中一の終わり。二人で万博に行った数か月後。
崇の親が離婚したことを、健之介は後々母から聞いた。
健之介は、電話やメールを送ったが、彼からは連絡は返ってこなかった。
突然音信普通になったことも、離婚したことを相談しないで、勝手に不良たちとつるんでることも、健之介をイラつかせた。
いつの間にかそれは嘲りに変わり、そして諦め、無関心に繋がっていった。
勝手にやってろと思ったし、どうでもいいとも思った。
自分は強者のつもりでいたし、弱者に構ってる暇はないと。
落ちる奴は、勝手に落ちていけばいい。
例えそれが嘗ての親友であっても、弱者に差し伸べる手など俺には無い。
健之介はそれが正義だと確信していたし、自分は正しいと思っていた。

「俺が強者…? 何の冗談?」

健之介は自分自身の事を冷笑する。
携帯電話を開き、あの行を眺める。

「…い……う………え………」

お。
及川…太田……岡島………長田…

そして…

電話帳には、岡田の文字は無かった。
健之介は、崇と話したその最後の日。
『せいぜい優秀なお友達と仲良くしとけ』と言われたあの直ぐ後に、崇の名前を抹消した。

夜は更けていたが、健之介の部屋には電気はついていない。
月明かりと、携帯電話の灯りだけが、健之介の顔面を照らしていた。
健之介はバタッと背中を壁にぶつけ、天を仰ぐ。
その瞳には、もう宝石は埋まっていない。

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