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第五章: 崇

額から汗が滴り、顎下からポタリと垂れる。
目は見開かれ、血走った眼が画面を凝視する。
ハァ、ハァ__呼吸は荒く、湿った吐息が画面を曇らせる。
震える指。
恐る恐る、その人差し指に力を込めていく。
 
カチッ
 
クリックすると、ロード画面が表示される。
崇の心臓は、今にもぶっ潰れそうだった。
 
パッと画面が切り替わった。
 
大きく開かれた瞼は、裂けんばかりに、更に上に持ち上がる。
その瞬間。
 
__心臓が止まった。
 
途端に、全身の力が一気に抜け、目の前が真っ白にホワイトアウトする。
筋肉は一斉に弛緩し、崇は座っていた椅子にべちゃりと張り付いた。
目から生気が消失し、希望は瞬く間にその場で霧散し、形を失くした。
 
【不合格】
 
そう表示された。
目の前のパソコンのモニターに。
不合格と、確かに文字が並んでいた。
 
魂が口から抜けていくのが分かる。
 
「…うそ、だろ…?」
 
死んだ魚を腐らせた様なその眼は、虚空を見つめている。
 
ピロン
 
携帯が鳴る。
十秒間無視した後で、顔も目もそのままで、腕だけを動かして携帯に手を伸ばす。
呆然とメールを確認した。
 
送信者『三浦健之介』
件名 『受かったぜ!!』
本文 『崇!受験お疲れ! 俺、早稲田大学受かったぜ! 大学行ってもよろしくな!』
 
瞳孔が開き、顔の筋肉が痙攣する。
 
ポタ…ポタ…
 
画面に滂沱の潮水が落ちていく。脳が業火の炎熱で焼け落ちる。
同時に、何故か崇の口角がスッと上昇した。
 
「…は…はは……はははは……ははは」
 
喉から擦れた笑いが漏れ出す。
そして、突然。
崇は右手を大きく上に上げ、それを机の上に振りおろした。
 
       「クソがぁあ!!!!!!」
 
握りしてめていた携帯も、床に思い切り投げつける。__ガン
 
「クソが!クソが!クソが!クソがっ!! ふざけんなぁああああ!」
 
       〖大学受験 全落ち〗
 
この瞬間、岡田崇の浪人生活が決定した。
 

 
その後一年間は、崇の人生で最も屈辱的な日々だった。
クラスに1人だけ、学年でも数名の浪人生。今まで積み上げたプライドは崩壊した。 
 
何より、第一志望だった早稲田大学に、健之介が合格した。
 
崇は高2のあの日の事を思い出し、悔しさ、恥ずかしさ、そして申し訳なさで一杯になる。
 
中学で健之介と訣別してから、2年後。
高2の夏。あいつが留学から帰ってきてすぐに、会いに来た。
会うなりそうそう、健之介はあたまを下げて言った。
 
『悪い崇! 俺が悪かった。許してくれ。俺はもう一回、お前と友達になりたい』
 
崇は「やられた」と思った。
謝らなきゃいけないのは、自分も同様だと分かっていたからだ。
先を越された悔しさと同時に、『こいつ、また成長しやがった』という嬉しさも同時に感じ、崇も同じように頭を下げた。
 
『俺もごめん、健之介!』
 
頭を下げ合った二人は顔を上げ、見つめ合うと、同時に「っぷ」と笑った。
 
そしてあの時誓ったんだ。
お互い、ビッグな人間になるって。小学生と変わらない俺たちで。
どっちが早く“すげぇ人間”になれるかって。
 
         _____それなのに
 
       俺は大学全落ちで、あいつは早稲田大学。
 
悔しすぎて、そして恥ずかしすぎて、腹がネジ切れそうだった。
 
だが崇は、みずからの弱さから逃げなかった。
爆発しそうな感情を24時間365日抱えながら、意地で毎日机にかじりつく。
 
『待ってろよ健之介…ぜってぇ追いつく。だから、待ってろよ…!』
 
毎朝5時半には河合塾池袋校の自習室に並び、最後はぎっくり腰になるまで受験勉強に集中した。
 
地獄の様な一年はあっという間に過ぎ、崇は再び自室のパソコンの前でマウスをクリックする。
 
【合格】
 
そう表示されていた。
 
目を目一杯開いた後で、ギュッと閉じ、手もギュッと握り、その場で叫んだ。
 
       「よっしゃぁぁああああ!!!」
 
崇はこうして、健之介に一年遅れて大学生になった。
 

 
目に映る全ての光景が、キラキラと光っている。
 
「世界ってこんなに輝いてたっけ?」
 
気持ち悪い笑みを浮かべながら、崇はそう呟いた。
大学が始まり最初のオリエンテーションが終わり、崇は中庭にいた。
 
「は~い、お兄さん! 集合!集合! 君、新入生? 新入生だよね?? はいじゃあこっち来よー」
 
胸元にハート型のスリットが空いた服を着たグラマーなお姉さんの勧誘を受ける。
崇は持っていかれそうな足を何とか踏ん張って、誘惑を必死に撃退した。
 
「あ~、すみません! ちょっと連れと約束してるんで~」
「え~そうなの!? そりゃあ残念! 暇ができたら、また来てねっ!」
 
名残惜しい…。
今のサークルに入っていれば、確実にリア充路線に乗り、女の子を侍らせることができただろう。
いかんいかん__崇は頭をブンブンと振った。
 
こうした勧誘を何回か受けてしまっているが、崇にはお目当ての、入ろうと思っているサークルがあった。
 
そして、丁度そのプラカードを掲げた集団が、目に飛び込んでくる。
 
          【BeBap!】
 
一歩踏み出す。
目を輝かせて、崇は彼らの方に足を進ませた。
 
「やぁやぁこんにちは! 君新入生!?」
計画通りに声をかけられ、崇は大きな声をあげる。
「はい!」
「お~、元気がいいな! 名前は何て言うのかな?」
「たかし、岡田崇です!」
「そっか、崇くんか! 良い名前だ!」
 
お兄さんはそう言うと、後ろにいる何人かのメンバーに目配せをし、合図を送る。
すると、高い指鳴りの音が、一定のリズムで「パン パン パン パン」と聞こえ始めた。
そして彼らは、まるで機械の様に、ピッタリ同時に口を開ける。
 
『ご入学おめでとうございます~♪ 今日は崇にとってかけがえの無い HAPPY DAY♪』
 
彼らは、声だけで音楽を奏でた。
リードボーカル。ソプラノ。アルト。テナー。ベース。パーカッション。
男性三人、女性三人が見事に声をハモらせて、耳障りの良い演奏が崇の鼓膜を揺さぶる。
崇は、瞳にきらきら星を浮かべる。
 
『今後の学園生活~♪ どうか私たちと一緒に、世界を音楽で一杯にしませんか~♪』
 
歌い終わりと同時に、右手を左腰に巻き付け、左手を前に出し、まるでお姫様を迎えに来たかの如く、6人全員が崇に手を伸ばす。
フートポンプでサッカーボールに空気を入れる様に、崇の胸に希望が充満していく。
崇は頬をグイっと上げると、リーダーの手をガシッと掴む。
そして、天に轟かんばかりの大きな声で、彼らに答えを返した。
 
「はい! よろしくお願いいたしますっ!!」
 

 
崇は、親が音大卒で音楽一家だったこともあり、高校時代から何となしに音楽の道を志していた。その為、大学に入学してからは、自分のスキルを高める為に思う存分音楽に没頭しよう考えていた。
音楽漬けの日々を送るために、崇が実際に選んだ活動の軸は、二つある。
 
【一つは大学におけるサークル活動】
【もう一つは、大学から離れた外部活動】
 
兎に角、経験を積み、スキルをいち早く修得したいと考えた崇は、二つの異なるバンドに所属することで、自分を追い込もうとした。
 
浪人時代。
地獄の様な日々の中で、将来、アーティストとして成功する夢を見はじめた。
その光景が、崇の倒れそうな背中を支えた。
二十五歳までに武道館のステージに立つという目標がいつの間にか心の中にひっそりと輝きだし、その光はいつの間にか崇の身体中を強く照らす希望となった。
 
だから大学に入学したこの日。
 
崇は、この先どんな茨の道が待っていようとも、その道を歩きぬくことを決心していた。
 

 
所属サークルに選んだのは、大学内でも最大規模のアカペラサークルだった。
崇がアカペラを選んだのには理由がある。
音楽活動をするにあたって、崇はボーカルとして進むことを決めていた。
元々、中・高時代に友達とカラオケ行った時、その歌唱力を友人に絶賛されたのも、彼が音楽の道に進むと決めた大きな要因の一つだった。
アカペラは、声だけで音を紡ぐ。いわば自分の喉だけが武器の、誤魔化しの効かない歌唱力一本勝負の分野である。
崇はそんな世界で、自分を鍛え上げようと思っていた。
 
浪人時代に息抜きにサークルの事について調べる内に、BeBap!というアカペラサークルのことを知った。
総勢300名を超える、歴史あるインカレサークルだ。
 
BeBap!のメインイベントは2つ。
「学祭」と「サークルライブ」。
学祭は全バンドが必ず出演する事ができるイベントだが、「サークルライブ」はオーディションによって100〜150バンドから選ばれた5〜8バンドだけが出演できる。
サークルライブは皆の憧れの舞台的な位置付けで、そこに出演すると、サークル内ではアイドルや芸能人みたいな神扱いを受けるという。
まるでAKB48である。
 
この非情な選抜システムを知った時の崇の感情。
それは、『面白れぇじゃん!!』である。
 
元々、崇は競争意識の高い人間だ。
勿論、その根底には三浦健之介という生涯一のライバルの存在がある。
現時点で、崇の人生は、大きく健之介の後塵を拝している。
経験においても、スペックにおいても。
これ以上離されるわけにはいかないし、健之介を追い越す分かりやすい道は、音楽で成功するしかない。
そのために、競争力が高い集団に所属するというのは、崇にとって当然の選択だった。
 
BeBap!のサークルライブに選ばれるためには、20倍の争いを勝ちぬかなくてはならない。
客観的に見て、簡単な数字ではない。
だが、崇はその数字を見てもなお、臆する事は無かった。
今後、音楽で成功するためには、20倍どころではない、100倍、1000倍の狭き門をこじ開けなければいけない。
ここで手こずっている暇はない。
 
一方で崇は、ただ単に、サークルライブに出場することだけを目標にしていたわけではなかった。
幼稚園、小学校と、ヒエラルキーの上位・『強者』として走っていた崇は、中学の親の離婚を切っ掛けに、浪人生も経験し、いわゆる『弱者』としても人生を歩んできた。
歯を食いしばって、血反吐を吐いて強者を見上げる日々も一杯送ってきた。
だからだろうか。
ただ単に、“自分だけが上に行ければいい”という、弱肉強食の理念だけが、彼を形作ってはいなかった。
崇のアイデンティティの中には、“弱かった時の自分”が確かに存在していて、無論、自分が強者に舞い戻ることは前提としても、周囲の弱者の手も握り締め、共に楽しめるような、そんなハッピーな世界を望んでいた。
 
未来への希望に胸を膨らませる崇。
とは言っても、この時点で岡田崇はまだ何者でもない。
日本に無数にある大学アカペラサークルの、無数のサークル員の一人でしかない。
 
___成り上がってやる!
 
心に燃え盛る情熱を秘めつつ、崇は自己のレベルアップの日々を歩みだした。
 
まずは、仲間集めだ。
バンド活動を始めるには、メンバーを揃えなければ始まらない。
ワンピースみたいで何かワクワクした。
新入生歓迎会(新歓)で、同級生のメンバーを観察する。
先輩と交流しながら、同じ1年生の会話に聞き耳を立てる。
 
『いやぁ~、何となくアカペラって楽しいかなって。俺、楽しめればいいんだよね~』
 
『学科の方が忙しいんで、そんなにサークル活動はできないと思うんですけど…でも、歌は昔から好きだし、ちょっとやってみたいなって』
 
『私は、サークルライブに絶対出たい! っていうか出る! だから、上手い奴!求む!』
 
色々な人がいた。
サークルを楽しみたい人。単に歌が好きな人。野心に溢れている人。
 
崇は嬉しかった。
 
勿論、野心に満ちた人々メンバーを組みたいとは考えてはいたが、それを抜きにして、ただただ嬉しかった。
 
それは、この空間全てが、”音楽を好き“という感情に満ち溢れていたからだ。
 
同じ感情を共有できることが、これ程脳に快楽をもたらすとは。
これほど生きる希望を胸に灯してくれるとは。
この時、崇は心の底から、この【BeBap!】というサークルに入ったことは間違いではないと確信した。
そんな気持ちを胸に、この日は新歓を思う存分楽しんだ。
 
後日。
崇は無事、サークルでバンドを結成した。
モチベーションを持ち、技術力も高いメンバーが揃った。
丁度時を同じくして、外部で模索していたバンド結成も形になり始め、これでひとまず音楽活動をするための基礎が築かれた形となった。
 
崇はまず最初に、分かりやすい二つの目標を定める。
 
    【サークルライブ出場】     
 
    【レーベル契約】
 
この時。
この二つの目標が、どれだけ高い絶壁かを、崇は理解していなかった。
 
ただ登れるという、根拠のない自信だけが、身体中に満ち溢れていた。
 
この日から、我武者羅に頑張る日々が幕を開けた。
 

 
外部バンドの名前が決まった。
 
『ンスティンダンストン』
 
キルスティンダンストというハリウッド女優が好きなメンバーがいて、そこからとった。
Wikipediaで今まで様々なバンドの名前の成り立ちを調べてきた中で、こういうのは勢いと響きの良さが大事であることを知っていた。
バンド名との決定というのは重要な項目だが、深みにハマるモノではない。
“キルスティンダンスト”という響きが気に入ったうえで、頭文字を『ン』にしたのも理由があった。それは、「ン」から始まるアーティスト名は、カラオケで競合がいなかったからだ。
売れるためには、実力が大事なのは言うまでも無いが、バンドマネージメントの部分も実力と同様にめちゃくちゃ大切だ。
自ら運を引き寄せる為には、こういった些細な部分にも拘っていく事が大切である。
 
メンバーは
 
チャーリー(岡田崇)
ハロルド
キートン
 
この中で、何とハロルドは崇の実の妹である。
バンド結成にあたり、迷うことなく血縁を引っ張ってこれる人間性も、岡田崇の強味の一つだ。
 
崇はサークル活動と平行して、ンスティンダンストンとして、路上ライブやライブハウスでの活動を開始する。
 

 
サークル活動。
 
バンド活動。
 
サークル活動。バンド活動。
 
サークル活動バンド活動サークル活動バンド活動。
 
崇の日常は、音楽で染められる。
同時に、学生の本分である授業も理系のため多忙を極め、目の回る様な日々を過ごす。
 
___おい崇!! 次のライブの曲、何にする?
 
___崇、基礎物理の宿題やってきた? 見せて見せて!
 
___今度の渋谷ライブに欠員出たらしいから、歌う曲増やしてって。どうする崇!?
 
大学生が自由といったのはドコのドイツだ?
グーテンモルゲンと言った瞬間に漆黒のグーテンアーベントが訪れて、疲弊しながら夜中の一時過ぎに寝、そして一限の9時の授業に間に合うように、早朝7時に起きる生活。
 
卒倒しそうな日々だったが、それでも岡田崇は楽しんでいた。
 
いや寧ろ、毎日が楽しすぎて、こんなに楽しくて良いのかと、世界に対する慈愛を声高らかに熱唱したい程だった。
 
確かに猛烈に忙しかったが、崇はそれに生きがいを感じていた。
浪人時代、歯を食いしばりながら勉強机に一日中かじりついていた日々を思い出せば、天国の様な毎日だった。
 
自分が好きな音楽という道。
自分が選んだ勉学。
自分が選択した道を進めていることが、倒れそうな程忙しい崇の背中を押していた。
 
修行に明け暮れる中。
 
崇はまず第一の目標、サークルライブに挑戦するが落選する。
 
一年生からオーディションを突破できるほど甘くは無いと思っていたが、やはり若干のショックはあった。
前代未聞の一年時から、四年連続のサークルライブ出場も、俺ならできるかもしれないと思っていたからだ。
しかし、蛮勇虚しく、崇は砕け散る。
 
その日は快晴の一日だった。
崇は少し、落ち込んでいた。
太陽の光が強く地上に降り注ぐ中、キャンパスを、地面を見つめ一人歩く。
 
___ドンッ
 
何かにぶつかった。
前方を見ていなかった、崇の完全な不注意である。
 
「あっ、ごめんなさい!」
 
慌てて崇は顔を上げる。
 
         そこには、壁があった。
 
背後の太陽に照らされ、黒い影で塗りつぶされた絶壁。
あまりの異形さに崇の体は硬直する。
 
すると、壁が喋りだした。
 
「あれっ、崇君?」
 
「え?」
 
名前を呼ばれ、思わず声が漏れる。
目が慣れ始めると、壁の全容が視界に浮き出てきた。
それと同時に、崇の目が大きく見開き、喉から野太い音が発せられた。
 
「え、ハッ⁉ 廣島さん!!!??」
 
「おぉ、俺のこと知ってる?」
 
彼は、素っ頓狂な顔でそう言った。
崇は目を丸める。
 
知らないはずがなかった。
彼は、BeBap!が誇る鬼才、廣島祐一郎である。
 
廣島は崇の一学年上。
1年のうちから、実力派の先輩達のチームにスカウトされる、スーパールーキーである。
サークル内のみならずアカペラ界でも有名人で、無論、今年もサークルライブ出場を決めていた。
 
廣島は呆然としている崇に、言葉をかける。
 
「ライブオーディション見たよ。結果は残念だったけど、惜しかったな!」
 
廣島は、こわもての顔に不自然に似合った、優しい表情で笑った。
崇は慌てて頭を下げた。
 
「あ、ありがとうございますっ!」
 
「頑張れよっ!」
 
崇の肩をポンポンと叩くと、廣島は颯爽とその場を去っていった。
 
呆然と、廣島の背中を見つめる崇。
時間の経過とともに、じんわりと今の出来事が心で消化されていく。
それと比例するように、口角がゆっくりと上昇していった。
両手を上に持ち上げ、強く握り締め、全身に力を込めると、崇は叫んだ。
 
「やっるぞぉおおおおお!!」
 
そのまま全力ダッシュで、バンド練習へと向かった。
 
サークル活動と、ンスティンダンストンでのバンド活動。
そのどちらも、目立った結果を残せずに一年が過ぎていったが、崇の炎は燃え続けていた。
 
余談になるが、この頃(というかクリスマス)、崇は一世一代のプロポーズに成功し、生涯を共に過ごす人生の伴侶を手に入れた。
幸せパワー全開だった崇は、『俺に出来ないことは何もない』とでも主張するような希望に溢れた顔つきで、日々邁進する。
 
そして、鼻息荒く大学二年生へと進級する。
 

 
目下の標的は『サークルライブ』である。
相手にとって不足なし。
崇はサークルのメンバーと綿密な打ち合わせと、滂沱の練習をこなし、着々と準備を進めていた。
 
あっという間に時は過ぎ、気づけば前回のサークルライブから一年が経とうとしていた。
 
一年生からのサークルライブ選出は伝説の領域だが、二年生になれば、勿論、圧倒的な実力が伴えば稀に選ばれるバンドも出てくる。
無我夢中で走り続けていた崇は、自分自身に期待していた。
 
__クオリティとしても勝負できる! __今年こそはサークルで不動の地位を築く!
 
崇はそう意気込んで、満を持してサークルライブに臨んだ。
 
しかし。
 
結果はすんなりと落選で終わった。
 
ショックだった。
 
    『おい崇、そんなに落ち込むな。俺らまで2年だぞ?』
 
バンドのリーダーの修也が、崇の背中をバンバンと叩きながら言う。
 
崇は、修也の言っていることも理解していた。
2年生でサークルライブに出れる方が奇跡。落ち込む必要なんて、全くない。
とある自分が、修也と同じ言葉を自分に投げかける。
 
だが奇跡を欲する、もう一人の自分がいた。
それが主人公で、それが岡田崇だと、どこかで信じていた。そんな自分がいた。
崇は顔をあげて、不器用な愛想笑いを浮かべる。
 
夢が、少しずつ現実に変わっていく“残酷な流れ”を、崇は体感していた。
 
一番最初に思い描く、最高の未来像を100とした時に、その数値はどんどん削られていく。
それが100のままの人間など皆無で(時には120、200に達する化け物もいるが)、どれだけこの数値の減少を食い止めるかが勝負となってくる。
 
サークルライブ四年連続出場を夢見た100という数値は、一年時の落選で90。
そして今回の落選で、70代にまで減っていた。
健之介の人生は、客観的に見て80近い。
今回のサークルライブ出場が決まれば85になり、健之介を追い抜けるはずだった。
 
大きなサークルだけあって、トップ層の壁は厚かったが、どこかで評価されないことを他人のせいにしていた部分もあった。
 
__俺は実力はあるはず…だれか、見るべき人が見れば、俺の実力を分かってくれるはず…
 
心にそんな悶々とした感情を抱えていた崇は、ある決心をする。
 
Music Revolutionと言われる、国内最大規模の音楽オーディションへの挑戦だ。
 
ンスティンダンストンでの活動に手ごたえを感じていた崇は、正直自信があった。
 
Music Revolutionは、YAMAHAが主催する。
つまり、音楽のプロの確かな目で評価されるということだ。
その人たちはきっと、まだ誰にも見つけられていない俺の才能を発見してくれて、俺を夢へと導いてくれる。
オーディションでグランプリを取って、レーベル契約をして、直ぐにSNSでバズって、もしかしたら一年後に武道館だって夢じゃない。
ロッキンだって、サマソニだって、ラブシャだって、実は目の前かもしれない。
一気に、120に、ブッ飛べるかもしれない…!
そんな妄想をしながら、オーディション当日を迎えた。
 
程よい緊張感を胸に抱え、メンバーと最終調整を行う。
その場には、フィアンセである中川結子もサポートメンバーとして帯同していた。
全ての準備が終了し、お互いの自信を確認し合う。
 
     『俺らなら絶対イケる!!』 
              
           『うん! イケる!! 審査員の度肝抜いちゃロー!』 
 
『抜いちゃろう!? 何弁なのそれ?』  
 
             『いやいや~、こんな時にそこ突っ込まないでよ!』 
 
『無理無理、気になってまともな演奏できへんわ』 
              
          『エセ関西弁きっしょー』 『おい!』  『はははは』
 
                『……』
 
         『……ま、気楽に有名になろうぜ!』 
   
 『…だな、気楽に成功しよう』 
               『気楽に気長に』 『気長はアカン!』
 
   『ふふふ』    『はっはっは』    『あはははは』
 
メンバーの精神状態は、良い様に感じた。
これなら、いつも通りの、いや、いつも以上のパフォーマンスが出来る。…イケる!
崇はそう手ごたえを感じて、本番に挑んだ。
 
崇の予想通りに、皆ノッていた。
ミスはほとんど無く、いつも以上に音に勢いがあるのに加えて、お互いがお互いの“音”をしっかり聞いて、上手く調和出来てる。
心の高揚はあるが、テンポが早くなる事もなく、今までに経験ない程の心地よいハーモニーがその場に広がっている感覚だった。
 
ンスティンダンストンは、120%のポテンシャルを解放し、演奏を終える。
 
       ____ハァ、ハァ…ハァ、ハァ
 
崇は出し尽くした。
まなじりを決して、汗を数筋滴らせ、肩で大きく息をする。
彼の体から発する聖なる光は、『どうだ!』という気迫を言外に示す。
 
ありがとうございましたと司会が言った。
そして、崇は大きく息を吐くと、その場で背筋を伸ばす。
メンバーの皆が、堂々とその場に屹立し、審査員の言葉を待った。
 
審査員は、皆表情を変えない。
 
…5秒……10秒………15秒……
 
彼らはなかなか言葉を発しなかった。
そして20秒が経とうとした時。
真ん中にいる、恐らく一番偉いであろう人間の口が開いた。
 
「何か、勘違いしてない?」
 
崇の思考が、一瞬止まる。
 
「え?」と口から言葉が出る。
 
「いや、自信に満ちた表情を君らしてるからさ。勘違いしてるんじゃないかと思って」
 
「…勘違い…ですか?」
 
「えーと…おかだ君…だっけ? 君ら、自分らの今の演奏に自信あるの?」
 
崇は沈黙する。
今日の、今の演奏は、ンスティンダンストンが持っているものを全て出した。
メンバーの代表として返答する以上、嘘をつくのは誠実ではない。
 
「自信があります!」
 
審査員は鼻から冷めた息をフッと吐き、言った。
 
「うん、だからそれが勘違いなんだ。君らは、顔に自信を貼り付けて充実感を漂わせるほどの演奏はしていないんだよ」
 
無慈悲な言葉。
メンバー全員に、後ろから日本刀で突き刺される様な疼痛が全身を襲う。
 
「…ダメ…でしたか?」
 
「うん。まるっきりお話にならない。それに気づいていればまだ改善の余地があるけど、今のに自信があるってことは、もう君らの音楽活動は終わりなんだよ。特に、ボーカルの岡田君」
 
崇は、そう呼びかけられた。
審査員の視線が一斉に向けられた。
崇は目を大きく開けたまま、フリーズしている。
審査員は、口を大きく広げて、崇に事実を伝えた。
 
「才能ないよ、君」
 
その瞬間。
 
崇の世界が、消滅する。
 
その後、引き続き審査員から何かを言われていたが、覚えていることは何もない。
 
気づいたら、全てが終わっていた。
 
いつの間にか控室にいて、魂が抜かれた屍と化した。
 
今まで積み上げてきた物が、全て崩れ去った気がした。
何のために頑張ってきたのか。
何のために歌っているのか。
こんな事を告げられるために、今日まで生きてきたわけじゃない。
 
   ___俺は、虚無に向かって走っていたのか?
 
メンバーに声をかけられたが、崇は、「あぁ」、「…ん」といった言葉しか返せなかった。
そのまま時間が経過し、オーディションは全演奏を終了した。
 
「ほら崇、結果発表だけは聞きに行こ?」
 
「…ん」
 
恍惚とした老人の様にその場に立ち上がると、結子に連れられて会場へと向かう。
 
『え~、それじゃあ、今回のコンテストの総評を行っていきます。いや、今回なんですがね、非常に優秀なバンドが沢山___』
 
崇に才能の無さを突き付けた審査員が、総評を始めた。
脳内を、先程の言葉が支配する。
 
____『才能ないよ君才能ないよ君才能ないよ君才能ないよ君才能ないよ君
 
才能ないよ君才能ないよ君才能ないよ君才能ないよ君才能ないよ君才能ないよ君
 
 才能ないよ君才能ないよ君才能ないよ君才能ないよ君才能ないよ君』____
 
崇の表情が途端に歪み、そのままクチャクチャになる。
 
「…ぁあ……ああ……アアア゛」
 
突然言葉にならない声を発する崇。
周囲の人はその声に気づき、一斉に崇を見る。
メンバーも皆驚き、目を見開いて彼を見た。
 
「ちょ、ちょっと、崇…! 静かにっ!」
 
潜めた声で、メンバーが言う。
崇は声を止めずに、今度は顔を左右に振り始めた。
 
「ああああ゛…あ゛あ゛ぅ…う゛う゛____」
 
慌てて結子が口を塞ぐ。
 
「…ぅ……………ぅぅ……」
 
まだ崇は我を忘れて喘いでいた。心配そうに見つめるメンバーに、結子は「大丈夫」と笑いかけた。
 
そのまま総評は続いた。
 
『では、いよいよグランプリバンドの発表にいきましょうか!』
 
会場の皆が、緊張と期待を込めた瞳で優勝バンドの発表を待っている中。
崇は俯き、「……ぁ………ぁ…」と言いながら、地面を見ていた。
 
『発表します。グランプリは、このバンドです! ___』
 
___モニターに優勝バンドが映し出され、司会者により優勝バンドがアナウンスされる。
 
無論、それはンスティンダンストンではない。
 
崇の呻き声が止まった。スゥーっと下瞼の上に涙がたまる。
涙の重量は一瞬にして表面張力の限界を超え、崇の滑らかな肌を滑り落ち、地面で王冠状に弾け飛ぶ。
 
滂沱として涙が湧き上がった。それはまるで、涙の瀑布だ。
 
メンバーはそんな崇を見守っていたが、かける言葉は見つからなかった。
 
一分ほどそうしていた崇は、徐にその場に立ち上がった。
 
周囲ではグランプリの発表による沸き立つような興奮と熱気がまだ収まっていない。
 
メンバー以外の誰にも気づかれずに、崇はそのまま足を会場出口へと向ける。
 
「「崇っ!」」
 
メンバーが声を合わせる。同時に結子が立ち上がった。
彼女は振り返りメンバーを見ると小さく言った。
 
「私が行ってくる」
 
メンバーは皆、瞬きもせずに大きくその場で頷いた。
メンバーは皆、誰もが崇と深い絆で結ばれていることを確信している。
しかし誰もが、今の崇に一番寄り添うべきなのは結子だということも理解していた。
 
会場の外。
 
「崇っ!」
 
結子は、後ろから彼を呼び止めた。
崇は悄然とその場に佇み、徐に一言、口にした。
 
「…俺、音楽止めようかな…」
 
結子は目に強く力を込めた。そしてその後、力を脱力させると、優しく微笑む。
 
「そうね、大学辞めたら、二人で隠居でもしようか」
 
「…」
 
「田舎で安い一軒家買って、子供と一緒に家族でまったりスローライフ。世の中のあらゆる有象無象のしがらみから解放されて、トトロみたいな世界の中で、おじいちゃん、おばあちゃんになるまで平和に過ごす。…どう?」
 
「……」
 
「何てねっ! 勿論、そんな崇でも好きでいる自信はあるけど、私にはもっと好きな崇がいる」
 
崇はようやく、少し後ろに顔を向けた。
 
「あなたが浪人生の時。12月の慶大模試で、私はバイトで予備校の試験官。
講師の楽屋行きのエレベーターに汗だくで飛び乗ってきた、必死な少年が一人。
般若の様な顔をして、『試験会場どこですか?』って。『上だけど、これ下に行きますけど』って私がいったら、目を丸くして『ごめんなさい』って飛び出していった。残された私たちはその場で大爆笑。…まさかそれが同級生で、しかもアドレスを聞かれてこうして付き合うとは、夢にも思わなかったけど」
 
結子は舌をペロッと出して笑った。
崇は、そんな彼女を見つめる。
結子は真直ぐに崇の顔を見ると、言葉を紡ぐ。
 
「私は、あんな一生懸命な崇が好き」
 
崇の瞳に輝きが戻る。
 
「あなたには、逆境がに合ってる。浪人の時だってそうだったでしょ? 今度も、どうやって立ち上がるか、私に見せて」
 
「…結子」
 
彼女はゆっくりと足を進めると、崇の隣に立って、手を差し出した。
 
「行こっ?」
 
崇は呆然と俯き、微かに微笑み、その手を握った。
 
           「うん」
 

 
オーディションから3日後。
崇はサークルのバンド練習に参加していた。
 
「オーディション! 落ちたわっ!!」
 
崇はゴムゴムの実の能力者の様な満面の笑顔で、サークルメンバーに報告した。
 
心は死ぬほど傷ついていたが、湿っぽい顔をするのはもうやめた。
崇は、そんな空元気を修得していた。勿論それは、結子のおかげが大きい。
 
「落ちて良かったよ」
 
そう、無慈悲な言葉を放ったのは、サークルのバンドリーダーの修也だった。
 
「ひ、酷くねぇ、修也?」
 
彼は静謐な目つきで黒い眼鏡をクイッと上げると、口端を持ち上げた。
 
「あまりそっちで活躍されると、俺らの活動に差し支えるからな。お前に抜けられるのは困る」
 
修也は恥ずかしげも無くそんな言葉を言う。
崇は顔に紅葉を散らして、「いやぁ~」と頭を掻いた。
修也はフッっと笑い、言葉を続けた。
 
「その審査員には正しい認識と誤った認識が混在しているな」
 
崇は眉間に皺を寄せて尋ねる。
 
「…というのは?」
 
「顔に自信を貼り付ける程の演奏じゃないってのは、その通りなんだろう。俺もンスティンダンストンの演奏は何回か聞いたことがある。客観的に見て、日本屈指のオーディションで、全国の天才どもを相手に自信を持てる程の演奏は、お前らには出来ていない。その面で、審査員は正しい」
 
「う゛!」
 
忖度のない客観的な意見。崇の心臓にグサッと矢が刺さる。
 
「…仰る通り…反論の余地もない」
 
「自分の実力を認める事は大切だ。とりあえず、今は実力不足を認めとけ」
 
「…はい」
 
辛辣な言葉のはずなのに、何故か修也の意見は、こちらのやる気を削がない。
寧ろ、ここからもっと上手になってやるという意欲が湧いてくる。
 
「なぁ、崇」と修也が言葉を続けた。
 
「ん?」
 
「じゃあ、審査員の誤った認識が何か分かるか?」
 
崇は、うーんと頭を回転させたが、答えは出てこなかった。
 
「分からん」
 
顔を上げると、そこには強く優しい眼差しで崇を見つめる修也の瞳があった。
 
___コイツ、なんて奇麗で、落ち着く目をしてるんだろう。
 
崇はそう思い、意識が引き込まれる。
 
修也はフワッと口角を上げて言った。
 
「お前に才能が無いと言った言葉。それが、そいつの間違いだ。崇には才能があるからな」
 
___トクン
 
修也の言葉は、崇の心を打つのには十分だった。
信頼の置ける仲間からの、こんな言葉に、心を打たれない方がおかしい。
 
だが同時に、安易にそれを鵜呑みにしてはいけないという気持ちもあった。
勘違いして、また傷つくのは、もう嫌だ。
 
「…おい修也……矛盾してるぞ? お前は、俺たちを実力不足と言ったはずだ? なのに才能あるって、それはおかしい!」
 
修斗は目を細め、不敵な笑みを浮かべる。
 
「馬鹿かお前は。だからお前は脳筋って皆に言われるんだ。いいか? 実力不足と才能の有無は、矛盾しない。共存出来るんだ。だって考えてみろ? 最初は誰だって下手だろ? 最初は未熟な状態から、段々と熟練していくんだ。だからそこと才能の有無は別の話だ。じゃあ才能って何だ? 人によって定義は変わってくると思うが…。審査員が言った言葉あるだろ? 演奏が下手なのに自信満々ってやつ。それこそ才能だ。俺からするとな。世の中には上手くても自信を持てずに本番で半分の力も出せずに失敗し、表舞台に立てない奴らで溢れてるんだ。それなのに、崇は自信満々で、未熟な演奏を披露してきたんだろ? それを才能と言わずに何て言うのか、俺には言い換える語彙力がない」
 
崇の瞼がワッと開く。唇とギュッと噛みしめて、崇は新たな反論を口にする。
 
「た、確かに修也の意見も一理ある。でも、俺はもう音楽に取り組んで一年以上経ってる。最初は誰しもが下手っていうのはその通りだが、最初というには俺はチャレンジした時間が長いと思うが?」
 
「じゃあ統計を取るか? 今まで売れたアーティスト。彼らが活動2年以内で成功の階段を上り始め、そのままシンデレラストーリーを駆け上っていった割合を。俺の感覚では、そんな人間は成功している中でも1割りもいない気がするがな」
 
崇は再び反論を準備する。
この時。何故修也にこんなに意見を言いたかったのか。
自分の価値を貶める己の発言を修也に否定して貰う事で、崇は自分を認め、自分を確かめたかったのかもしれない。
 
そして修也は、そんな崇の気持ちに満額回答する。
 
「でも__」
        「あー、でもでもでもでも、うるせーな!!」
 
崇の言葉を、修也が強制的に遮った。
 
「俺の言葉を信じるのか、信じないのか。お前の好きにしろ、崇。
 
         最後にもう一回だけ言う」
 
修也は穏やかな笑みを浮かべながら、自信満々に言葉を発した。
 
「安心しろ。お前は天才だ。俺が保証する」
 
言葉の槍に貫かれ、崇は最後のトドメを刺された。
 
__ドックン。先程より大きく、深く、心臓が跳ねる。
 
声が鼓膜に伝わり、蝸牛(かぎゅう)が振動を電気信号に変え、その言葉が脳に伝わった瞬間。
崇の胸は飛翔した。空高く。悠悠と蒼穹を泳ぐ鷹のように、羽ばたいた。
 
ジワリと下瞼が熱くなる。素敵な感情が溶けた液体が、目頭に溜まっていく。
この男の安心感、包容力は何なんだろうと、崇は思う。
例え世界の80億人が敵にまわっても、修也さえ見方でいてくれれば、どんな闘いにだって勝てる気がする。そんな事を思わせる、不思議な男だった。
 
崇は下瞼に必死に力を込め、感情が零れてしまわない様に上を向き、そしてニィ、と笑った。
大きく息を吸い、大きく息を吐く。
平静な自分を強制的に作り上げると、崇はその場に勢い良く立ち上がり、奇声を上げた。
 
     「っっっひゃーーーーほぅううーーーーー!!!」
 
両手を天に突き上げ、ラウンジの視線を一手に集めた。
サークルメンバーも、崇の突然の奇行に驚き目を丸める。
 
「ど、どうした崇!?」
 
振り向きざまに爽やかな笑顔を披露し、崇は言う。
 
「修也に褒められたのが嬉しくって」
 
一同は顔を見合わせ合う。
 
『…こいつ、やっぱアホだ』 『大丈夫か? …先行き不安』
 
そう呟きながら、何故か、皆の顔は明るい。
 
崇は引き続き喜びの舞を披露していた。
修也はそれを呆れながら見て、ボソッと笑う。
 
「褒めてねぇよ。…事実を言っただけだ」
 

 
崇は周りの人々のおかげで、僅か3日で立ち直ることに成功する。
takashiOS ver.20.01.02 へと、大幅な改革を伴い、アップデートされた。
 
持ち味の自信を取り戻しただけではなく、修也から客観的な視点を学ぶ。
 
ずっとサークルライブ出場ばかり追い求めていたけど、もっと身近な目標があった。
 
サークルの最強同学年バンド “イージーライダー”
 
まずはコイツ達を倒さなければ、サークルライブへの道は無い。
上の年代に目を向ければ、BeBap!が誇る怪人・廣島を筆頭に化け物が揃っているが、まずは同年代でトップに立たなければお話にならない。
 
イージーライダーには、絶対的なリーダーがいた。
身長158センチメートル。
上半身に筋肉の鎧を持ち、笑みを一切見せないMr.ポーカーフェイス。
彼の歌唱力は同級生の中では図抜けており、皆が皆、崇以上の実力を持っていると認識している。
それは、当事者である崇自身でも、だった。
 
      _____彼の名前はポチョムキン。
 
「まずはポチョを倒す…!   __そしていずれは、廣島さんも倒す!」
 
修也はコメカミをトントンと叩きながら、苦く笑った。
 
「それは、高いハードルだぞ」
 
「分かってるって! でも俺に才能があるって言ったのはお前だ、修也。責任とれよ! 俺をもっと凄い奴にするために、協力してくれっ!」
 
「…ったく、しょうがねぇなぁ」   修也は笑う。
 

 
崇たちは、三年のサークルライブ出場に向け、臥薪嘗胆の冬を送る。
基礎トレーニングや、路上ライブなど、地道な努力をコツコツと積み上げていった。
 
そんな中で、崇はポチョムキンに対して、過剰とも言えるライバル心を見せる。
姿を見ると必ず近づき、「絶対負けねぇかんな‼」と顔を指し、その場から去っていく。
崇は目標を胸に秘めるより、口にする事で、モチベーションが上がるタイプだった。
ポチョムキンは、そんな崇に何も言い返すことは無く、ただいつもの冷めた眼差しで崇を一瞥していた。
 
その様子はサークル内でも風物詩となり、皆「まぁ~たやってるよ崇」、と半ば呆れ気味でその様子を見ていた。
そんな悪目立ちもあってか、サークル内での崇の存在感は、日に日に強くなっていった。
 
新年も明けたある日のサークル全体の打ち上げ。
悪酔いした崇は、ポチョムキンの隣に座り、またもちょっかいをかけていた。
 
「おい」
 
「…」
 
「お~い!」
 
「……」
 
「おい! おい! おい!」
 
「……………………」
 
崇のしつこい訴えにも屈しず、ポチョムキンはひたすら芋焼酎ロックを飲んでいる。
 
“こついホントに大学生か? どう見ても…五十過ぎたサラリーマンにしか見えない”
 
皆の心から、そう言葉がぽわぽわと吹き出しから浮かんでいた。
 
「そうやってシカト決めていられるのも今の内だぞポチョ…。今年のサークルライブこそ、お前より上のステージを奪ってやるからな」
 
__ガンッ
 
一気に飲み干したグラスを机に叩きつけると、ポチョムキンは首を勢いよく回し、大きく充血した瞳で崇を睨みつけた。
瞬きを一切せず、こめかみの血管を怒張させ、鼻から息を“フムー”と吐いていた。
 
『お?』と、皆思う。
ポチョムキンが崇の挑発に乗ったのは、これが初めてだった。
 
崇は一瞬驚き目を大きく広げた後、少年ジャンプの主人公の様に、力づい良い眼光と共に、グイっと右の口角を上げる。
 
ポチョムキンは喝破した。
 
「いい加減、夢から冷めろ小僧」
 
「…あ?」
 
「…お前、うざいんだよ」
 
崇は不敵に笑う。
 
「よく言われるな」
 
「…音楽を始めたのはいつだ?」
 
「あ? 大学からだけど?」
 
ポチョムキンはそれを聞き少しの間を開けた後、フッと鼻先で嘲笑した。
そして、今まで見たこともない顔と、聞いたことのない声量で、その場で大笑いした。
開かれた居酒屋の座敷中に声は轟く。
その瞬間、全ての人間の声が消え、無音の空間が誕生する。
サークルの全ての人間の視線が集まった。
 
崇は呆気に取られながら、彼の様子を黙って見ていた。
 
ポチョムキンは笑い終えると、眼光鋭く崇を睨みつける。
そして、徐に右手を上げた。
 
その手は、親指は曲げられ、残りの四本の指が立っている。
崇は意味が分からずに、眉根に皺を寄せ、首を僅かに傾ける。
ポチョムキンは言う。
 
 「4才    ____俺がボイストレーニングを始めた年齢だ」
 
崇の瞼が、スゥーっと上昇した。そして声を失う。
 
「俺とお前じゃ、世界が違う。無駄なライバル意識は迷惑だ。身の程を知れ、鬱陶しい」
 
皆がやり取りを見守っている。
 
引き続く、無音の空間。
 
幾千の視線の矢を受けながら、崇は、腕を上げた。
 
ポチョムキンはその手を一瞥する。
 
「…何の真似だ?」
 
崇は広げた手のひらの隙間からポチョムキンを見つめる。そして言った。
 
「五カ月だ    ____お前が、俺に超される時間の猶予。
 
         五カ月後のサークルライブオーディションで、お前は俺に負ける」
 
ポチョムキンは、唖然とした。
脳内では直ぐに反論の言葉を準備したが、崇の顔を見て、それは喉で詰まった。
 
自分を信じて疑わない、崇の姿がそこにあった。
 
____コイツは馬鹿なのか?
 
ポチョムキンはそう思う。
どこから、ここまでの自信が溢れてくるのか。
理解が出来なかった。
 
正直、ポチョムキンから見て崇の技術はまだ拙い。
実力もないのに、無駄に突っかかってくる、ただの阿保。
焦る様な相手では、全くないはず。
 
     _____だが、何故だ…?  _ブルっ
 
  な ぜ お れ の 体 は 震 え て い る ん だ
 
言いようのない恐怖。ポチョムキンはそれを感じていた。
それは、廣島に対面した時でも感じない、得体の知れない情動だった。
 
ポチョムキンはそれを体内から震えを追い出す様に、俯き、全身に力を込めた。
筋肉の鎧が服を押し上げる。
ガッと顔を上げ、崇を睨みつけた。
 
そして何も言わずに立ち上がり、その場から消えていった。
 

 
この日の一件は、『岡田・ポチョムキンの乱』としてサークル中に広まった。
二人のやり取りは、その場にいた誰もが見ており、すぐにサークル内に喧伝される。
 
『五カ月だ    ____お前が、俺に超される時間の猶予』
 
というセリフが決め顔とセットでサークル内で流行り、崇はいたたまれない思いをすることになる。
 
あの日の自分を思い出すと、顔から火が出る程に恥ずかしい。
でも、言葉にしてしまったからにはやるしかない。
崇はライブオーディションまでの数ヵ月、それまでにも増して、血のにじむような努力を積み重ねていった。
 
そして時は流れ、いよいよその日が訪れる。
 
サークルライブオーディション当日。
 
「大丈夫か崇、緊張してないか?」
 
「はぁ!? 緊張⁇ 俺がそんなもん……う゛っ__オロロロロ」
崇はわざとらしく吐く真似をする。
 
「ハハっ、それだけの名演技が出来るなら大丈夫そうだな」
修斗はそう笑った。
 
控室で、崇や修斗達はリラックスした様子で出番を待っていた。
順番としては、崇たちの後は中盤過ぎの76番目。
イージーライダーは終盤の112番目。
そしてトリには、廣島率いるサークルNo.1バンドが演奏する予定となっていた。
 
結論から言う。
 
崇たちは【サークルライブの出場】を決める。
 
この日、崇は、サークルの皆に認められたのだ。
自分の持てる全てを掛けた努力の塊は、成果となって光り輝く。
 
正に、ハッピーエンドだ。
 
大団円。
 
そのはずだった。
 
しかしながら、崇は苦悶の表情を浮かべ、俯いていた。
 
修也たちは、そんな様子の崇に声をかけることはしなかった。
代わりに、ある男に、崇を任せた。
 
そのある男は、閉口して崇を見下げる。
 
男は何も言わずに、その場に仁王立ちする。
存在に気づき、咄嗟に崇は顔を上げた。
 
「おい…」
 
崇が言った。男は、返事を返さない。
 
「…何で何も言わない?」
 
その男・ポチョムキンが、鈍重な声音で言う。
 
「…サークルライブ、出場おめでとう」
 
そう。崇はサークルライブ出場を決めたのだ。
 
     ___演奏と演奏の、場繋ぎとして。
        
与えられた時間は、他のメインバンドのおよそ三分の一。
そして、そのメインバンドの一つに、当然のようにポチョムキンは入っていた。
 
崇は俯く。
ハードルを上げたのは、自分自身だった。
岡田崇が100%悪い。
 
___何回俺は“負け”ればいいのだろう。
 
岡田崇は、ポチョムキンに負けたのだ。
 
惨め。無念。失望。
 
胸の中で、そんな負の感情が煮えたぎる。
崇は、自分の情動を押さえきれずに、言葉を捻り出した。
 
「罵れよ?」
 
醜い声だった。
ポチョムキンは何も言わずに、ただ崇を見つめている。
崇はポチョムキンを睨みつけ言葉を続ける。
 
「大口叩いた割に雑魚だなって! この負け犬がって、罵れよ!!!」
 
数秒間、沈黙した。
目を見開いて無様に吠えた崇を見て、ポチョムキンの眉間には、深い谷が生まれていた。
10秒後。
ポチョムキンは突然、その場で大きく足を上げ、地面を踏みつけると、握り拳にギュゥっと力を込めた。
 
そして、勢いよくバッと右手を伸ばした。
崇の胸ぐらを掴み、自分より15センチ以上背の高い崇を、軽々と持ち上げた。
 
目は見開かれ、瞳を取り囲むようにして、毛細血管が無数に走っていた。
崇の瞳と、ポチョムキンの瞳の距離は、僅かに三センチ。
 
その至近距離で、ポチョムキンは言った。
 
「今の貴様には罵る価値もないが、特別にサービスだ」
 
次の瞬間。
ポチョムキンは大きく振り上げた左手で、崇の頬をぶっ飛ばした。
 
崇の体は、まるで木枯らしに吹かれた枯葉のように、地面を転がっていく。
そしてやがて体の回転が止まる。
 
崇の体は全く動かない。
ポチョムキンは容赦なく、崇の屍に言葉を浴びせる。
 
「貴様は己の努力を恥じているのか⁉ 間違ったことをしてきたのか⁉ 答えろ、岡田崇!」
 
崇はまだ動かない。ポチョムキンは言葉を続ける。
 
「いいか…一度しか言わんぞ。今日、俺はお前達の演奏に感動した。程度はまだ低いが、数ヵ月前と比べれば、天と地だ。俺が感動したのは、その上達のスピードにだ。並の努力じゃないのは、見て分かった。……それにも関わらず__」
 
崇の体がピクリと動いた。そして、彼はゆっくりと顔を上げる。
ポチョムキンは崇の顔を見て言った。
 
「何だ今の貴様のざまは! 男なら、自分のした事に矜持を持て、胸を張れ!」
 
崇の瞼がゆっくりと上がり、瞳に輝きが戻っていく。
 
「次、またそんな腑抜けた面を見せたら、容赦なく殴り殺す!」
 
ポチョムキンは眼光鋭くそう言うと、踵を返し、その場から去っていった。
崇は何も言えずに、彼の背中を見つめていた。
 

 
東久留米にある小さな川沿いの、小さな公園。
そこは昔、中学の頃に優太とよくたむろしていた公園。
午後10時。
疎らにある街灯の頼りない光が、崇を照らしていた。
彼は左頬に手を置き、その熱を感じる。
 
「…イッテェな…あの馬鹿力が…」
 
崇は空を見上げる。薄い雲が広がり、清澄な月がこちらを見ていた。崇は笑う。
 
「ポチョの言う通りだぜ。俺は、自分のやってきた事に、後悔なんて一つもねぇ。
 
 失敗? 敗北? 今に始まった事じゃねぇ。俺の人生には、いつもの事だろ?」
 
崇は月に手を伸ばす。
 
「失敗したら、成功するまでやりゃあいい。敗北したら、それを糧に勝利を目指せばいい」
 
崇は俯いた。
 
「あぶねぇ、あぶねぇ、忘れるところだった。ポチョのお陰で思い出したぜ。…オレが知りてェのは楽な道のりじゃねぇ」
 
崇は再び顔を上げ、真正面を見つめた。そして、右の口角をあげて言った。
 
「険しい道の歩き方だ…!」
 
ポケットに手を入れ、スマホを取り出すと、ある男に電話する。
 
プル__
 
ワンコールが鳴り終わる前に、そいつは出た。
 
「待ってたぜ?」
 
修也らしい第一声を聞き、崇は鼻で笑う。
 
「まだ何も言ってないんですけど?」
 
「サークルライブの打ち合わせだろ?」
 
「お前はエスパーかっ! …今から、修也の家行っていいか?」
 
「当前だ! もう時間もないからな。朝まで寝かせないからな?」
 
崇は笑みをこぼした。
 
「……ポチョに、何か言ってくれたのか?」
 
「なに。ただ、お前の根性を叩きなおしてくれっていっただけさ。落ち込んでるお前を励ます何て面倒事、そう何回もやりたくなかったからな」
 
「ごめん……ありがと」
 
「悪いと思ってるなら死ぬ気でサークルライブの事考えろ」
 
「おう」
 
崇は、立ち上がった。
そして全力で走り出す。
 
崇の瞳には、もう迷いの色は浮かばない。
ジンジンと痛む左頬に冷たい風が当たって気持ちよかった。
 

 
崇はサークルライブに臨むにあたって、二つの目的意識を持っていた。
 
一つは当然ながら、サークルライブ出場バンドとして恥じないクオリティ、欲を言えば出演バンドの中でも目を引くような演奏をすること。
 
そしてもう一つは、BeBap!というサークルにおいて、このサークルライブという一大イベントを成功させる、という運営目線の目標だった。
 
元来、リーダー気質である崇は、サークルをどうまとめるか、という事には興味はあったが、自分のバンドの実力が無ければリーダーどころの話ではない。
そこで今回、曲りなりもサークルライブ出場を果たしたことで、運営にも関わってみたいという気持ちが芽生えていた。
積極的にサークルライブ運営に関わっていく中で、今まではあまり接点の無かった人、話をしたことが無かった人とも交わる機会も多くなる。
三年生という学年もあり、上にも下にも融通がききやすい崇は、いつの間にかサークルライブの運営に置いて、皆の繋ぎ役となり、重要なポジションとして位置づけられていった。
 
そして、その年のサークルライブは、例年通り無難に成功をおさめる。
 
最大の盛り上がりを見せたのは、BeBap!の誇る怪物・廣島祐一郎率いるバンドで、彼がテレビ出演や、メジャーバンドからの勧誘を受けているという話題性もあり、歓声は一際大きかった。
 
そして、3学年が誇るエース・ポチョムキン率いるイージーライダーも圧巻の演奏を見せ、崇は「…やっぱすげぇな」と、悔しさと嬉しさ入り混じる想いで演奏を聞いていた。
 
全ての演奏が終わった。
 
勿論その日、夜からはサークルの打ち上げが開催される。
 
『へ~い、崇! おつかれちゃ~ん! 演奏良かったぜぃ!』
 
   『おーおー影の立役者、崇君じゃないっすか~、裏で色々動いてたみたいだね』
 
 『崇君! 本当にお疲れ様っ! ほらっ、お姉さんの胸に飛び込んでおいで♡』
 
崇は、知り合いが一気に増えていた。
皆とハイタッチをどんどん交わし、充実感・達成感を共有する。
崇は終始笑顔で、軽口を返す。
そんな彼の手がピタリと止まり、笑顔が固まった。
崇は何もリアクションを取らない相手を見て、眉間に皺を寄せ、引きつった笑顔を見せる。
 
「おい、こちらが手を出してるんだから、君も手を上げるのが礼儀じゃないかいポチョ」
 
「残念ながら、俺は雑なる魚とハイタッチをする趣味はないんだ。手が魚臭くなる」
 
途端に、崇の顔が旬のトマトの様に赤くなり、ヤカンの様に蒸気を発した。
 
「お、お、お前! 言わせておけばぁあああ!」
 
直ぐに「どーどー」と、修也が後ろから崇を抱え込み、ポチョムキンは「フンッ」と言って無表情でその場から去っていった。
怒りの収まらない崇を、修也がなだめる。
 
「ポチョはああゆう奴だから。多分、心の内では認めてると思うぜ? それより、崇! 飲むぞっ!」
 
珍しく見る修也の穏やかな笑みに、崇の怒りは鎮まっていった。そして言う。
 
「……おう」
 
その日、崇はこれまでのプレッシャーから解放され、大いに飲んだ。
安心しきった体に酒が回るスピードはあっという間で、1時間もしないうちに崇はベロベロになる。
 
「……だかぁらぁ……おれは、まだ、ぜんっっっっっぜん、満足してないっすよ! こんなんじゃ、廣島さんがいなくなる来年は、ほんっと、ダメれすよ…」
 
『わかったから、ほら崇、水だ。水飲め!』
 
「…おりゃぁ、よぉってないってんだろ?」  『いいからいいから』
 
仲間に強制的に和らぎ水を注入される崇。
そんな時、ふと、一人の男の姿が崇の脳裏にポカンと浮かんだ。
 
「…あれ? そう言えば、廣島さんは?」
 
先程から、ライブの最大の立役者の姿が見えない。
 
「あ~」と、修也が何とも困ったような笑みを浮かべていた。
 

 
居酒屋を出て大通りを左に曲がり、更に建物に沿って左へ。
 
その路地裏に、廣島はいた。
 
外の風に吹かれて、すこし酔いの落ち着いた崇は、ゆっくりと彼に近づいた。
そして足を止める。
 
「ひーろしーま、さんっ!」
 
優しく穏やかに、明るく楽しく、そう声をかけると、廣島は俯いていた顔を上に上げた。
 
思わず目を丸める崇。
 
そこには、涙と鼻水でグチャグチャになった顔があった。
 
「…たかし」
 
三秒ほど硬直した後で、廣島は目から(´;ω;`)ブワッっと涙を再放流し、崇の胸に飛び込んできた。
崇はそれを全身で受け止める。
 
「たぁぁああかかぁあああしぃぃいいいい」
 
「おーよしよしっ!!」
 
胸にサークルのレジェンドを抱えて、全力で頭をワシャワシャと撫でる。
 
    ___廣島祐一郎は、絶賛彼女に振られた直後で、
         現在絶望の真っ只中であった。

「辛いっすよね」         「おぉおん!!」
 
「死にたくなりますよね」     「おぉおん!!」
 
「じゃあ、その絶望エネルギーをンスティンダンストンで発散させましょう!」
 
         「おぉおん!!」
 
         「……おん?」
 
表情をキョトンと呆けた顔に塗り直し、廣島は崇を見た。
そして首を傾げて言う。
 
         「どういうこと?」
 

 
こうして、ンスティンダンストンは新たなメンバー、【ロビン】こと廣島祐一郎を仲間に加えた。
 
結局あの後、頭に?マークを浮かべた廣島を、崇が強引に引き入れた形だ。
 
「えーと、なんでここにいるのか分かんないんだけど、とりあえず、新しく加入することになったロビンです。よろしくお願いします」
 
パチパチパチ。
チャーリー(岡田崇)、ハロルド(妹)、キートン(中学の同級生)が拍手を送る。
 
「ようこそ! ンスティンダンストンへ!」
 
皆、両手を広げてロビンを歓迎した。
 
崇は言う。
 
「早速だけど、音楽野郎たちのコミュニケーションは、演奏だろ⁉ やろうぜ!」
 
崇は、メンバーに廣島の実力を手っ取り早く感じて貰おうと思案する。
 
   『いいねっ!』
              『やろう!』
 
メンバーは、当時はやっていたjpopを演奏することにする。
 
そしてこの数分後に、ハロルドとキートンが度肝を抜かれたのは言うまでもない。
崇はその様子を満足気に見守っていた。
 
至極当然の結果かもしれないが、ロビンの加入はンスティンダンストンに革命をもたらした。
バントとしての音の厚みが何倍にも増幅され、彼らの演奏は飛躍的に向上する。
そして、実力の上昇に比例し、彼らの人気も鰻登りに上がっていく。
 
ライブを重ねるごとに集客は増していき、固定のファンになってくれる人も出てきた。
 
既存の曲を演奏するだけでなく、バンドとしてオリジナル曲にも取り組み、ンスティンダンストンは上昇気流に乗っていく。
 
そんな束の間の順風満帆の最中。
 
サークル・BeBap! にて
 
崇は密かにとある計画を企てていた。
 
それはある意味無謀。
だが、客観的に見れば可能性はゼロではなく、寧ろ勝算はある。
 
崇はそう感じていた。
胸に静かな炎を灯し続け、そしてある時、決心をする。
それを開陳する相手は、勿論バンドリーダーの修也である。
1年の時から、いつも支え続けてくれた“コイツ”にまずは言うべきだと思った。
 
「何だよ話って?」
 
呼びだされ、珍しく真剣な眼差しを向けられた彼はそう言った。
崇は、心を込めて、自分の決意を口にする。
 
「俺、今年、サークルの代表に立候補しようと思う」
 
その所信を聞いても、修也は表情を変えなかった。
沈黙が崇の鼓動を早めた。そして5秒ほど経ったところで修也は口を開く。
 
「え? それだけ?」
 
その言葉を聞いて、崇は大きな目でパチパチとまばたきをした。
 
「え?」
「いや、真剣な顔して何を言われるかと思ったけど、それだけ?」
「それだけって……俺の一大決心なんだけど…」
「一大決心なのは分かるけど、お前が代表になりたいなんて、予想通り過ぎて、あぁやっぱり…としか思わないんだが?」
 
途端に、崇はその場にフニャリと弛緩する。
 
「なんだよそれぇ~、この俺の一大決心を」
 
修也は「ははっ」っと笑い、そして口を開く。
 
「それで? この俺に、戦略を立てろって、そう言う事だろ?」
「話が早くて助かります、リーダー」
「高くつくぜ?」
「もれなく岡田崇と友達なんだぜ俺?って自慢できる権利を、数年後には、必ず」
「そりゃあ随分と格安の仕事になりそーだ」
「ひどっ! 俺の才能信じてんだろ?」
 
「そんなこといったっけ?」と修也はおどけた。
 
____パシッ
 
二人は拳を合わせた。
 
修也の立てた戦略は、いたってシンプルだった。
 
   【候補者となりそうな一人一人に会いに行き勧誘する】
 
「いくら何でも古典戦法過ぎない?」
 
「古典戦法でいいんだよ。選挙活動と同じだ。自分の所信を演説して、有権者の票を集めていく。それに、たった数百人のサークルだ。こうして地道に思える方法が、一番の近道だったりするんだよ」
 
「そんなもんかぁ」
 
「そっ、だから崇。まず一番大事なことは、所信だ。自分の信じるビジョンをはっきりさせないと意味がない。とりあえず早いうちに、原稿にして俺に見せろ」
 
「お、おう」
 
修也は鼻でフッと息を吐くと、「おっといけない、もう四時半だ」と言って立ち上がる。
修也は自分の行動を1分単位で管理している、機械の様な人間だ。
今も時計の針は四時半を刻んだところで、アラームをセットしてるわけでもないのに颯爽とその場を去って行った。
 
そんな彼の後姿を見つめながら、崇は独り言ちる。  「所信演説…か…」
 
漠然としたビジョンはあった。
 
でも、修也が言ったように、それを言語化したことがあったわけじゃない。
崇は家に帰ると、コンビニにで買った白紙のノートに向き合って、鉛筆を持て余していた。
自分のビジョンを明確にすること。
それは、自分と向き合うことと同義だ。
今までの人生を振り返り、自分とは何か、どうありたいかを見つけていく。
 
崇は真剣な面持ちで、鉛筆を走らせ始めた。
 

 
某日。
 
大学キャンパス近くのスターバックスにて。
 
「えーと、何だろう、凄く嫌な予感がするんだけど?」
 
困惑する少女が一人。
 
「え? 何が?」
 
満面の笑みの崇が言った。
 
この日、崇は仲の良いサークルメンバーの一人をスタバに連れ込み、彼女の好物のホットトールフォーミースターバックスラテウィズキャラメルソースをご馳走していた。
 
彼女(ラテ子)は「…じゃあ、頂きます」と恐る恐るそれに口を付けた。
 
その瞬間。
 
「…飲んだな?」
 
崇はニヤリと、悪そうに笑う。
ラテ子はギクリと唾を呑み込んだ。
 
1秒……2秒……3秒……4秒……
 
5秒が経とうとした時、崇は顔をハの字にフニッと崩した。
 
「うそうそ! そんな怖がらんで! 遠慮せずに飲んで!」 
 
「…でも、何か用事があって呼んだんでしょ?」と、カップを両手で抱えながら言う。
 
「うん。…ただ、ちょっと所信演説を聞いてもらいたんだ」と崇は言った。
 
「…所信演説?」
 
彼女はオウム返しをすると、再びスターバックスラテをチロチロと飲んだ。
 
崇は自分のビジョンについてラテ子に説明を始める。
それは、来季のサークル目標・活動指針について。
 
内容を要約すると、以下である。
 
Ⅰ.【過去最大規模のサークルライブを開催すること。】
 
Ⅱ.【従来のコンセプトを一新し、プロレベルのエンターテイメントショーを目指すこと。】
 
Ⅲ.【上記を達成するために、サークルの会費を1000円から6000円に引き上げること。同時に、飲み会などの懇親会の頻度を減らし、その予算をサークルライブに当てること。】
 
崇はこの三つを、まずは簡潔に説明した。
それを聞いたラテ子は、困惑・不安・驚きを混ぜた様な、複雑な表情を作った。
 
「えーと、私はこうゆう熱いのも好きだけど、皆が何て言うかなぁ」
 
「皆のことは、…これから俺がどうにかする。今は、ラテ子…お前に協力して欲しいんだ」
 
「…う~ん、うん…」
 
歯切れの悪い返事をする彼女。
それを見て、崇は、当然の反応だと思った。
何故ならば、崇は今、サークルにおける熱量と娯楽のバランスを大幅に崩そうとしているからだ。
今まで、そのバランスにおける温度感が好きだったメンバーがBeBap!に所属しているのであって、それを壊されようとされて、心地の良い人間など少数だと。そう認識している。
 
それでも、…それでも崇はサークルで大きなチャレンジをしたいと思った。
 
崇はポケットからスマホを取り出すと、ある動画をラテ子に見せる。
 
「…何これ?」
 
画面に集中するラテ子を見て、崇は微笑し、無言でその様子を見守った。
しばらくすると、彼女が再び口を開いた。
 
「あっ、これもしかしてディズニー?」  
                    「ご名答っ!」
 
「うわっ凄っ!」
          「だろ?」
 
ラテ子は、そのディズニーショーに釘付けになっていた。
何回も「うわっ」と口にし、目をキラキラと輝かせる。
 
そして、約10分ほどのその動画が終わると、続けて二つ、プロのショーを崇は流した。
いずれも、日本最高峰の、エンターテイメントショーだ。
 
圧巻のパフォーマンス。圧巻のエンターテイメント。
 
それを見せつけて、動画が終了する。
 
ラテ子は呆然と、ショーの余韻に浸っていたが、暫くすると我に返った様子で言った。
 
「……凄かったけど、……これが何?」
 
崇は即答する。
 
「これをやろう! 来年サークルライブで!」
 
ラテ子は一瞬声を忘れる。そして、その後、大声を出した。
 
「は、ハァ⁉ 崇、何言ってんの⁉」
 
「勿論、全く同じ事をするわけじゃないぞ? これと同レベルのクオリティで、サークルライブをやろうってこと!」
 
「む、無理に決まってるじゃん? これ、プロだよ? ディズニーだよ?」
 
「無理かもな…でも、月に手を伸ばすことは出来るだろ?」
 
「……なに言ってるの…崇」
 
ラテ子は半分呆れている。
 
崇は頼んだブラックコーヒーを手にし、ゆっくりそれを口にする。
そして自分の気持ちを鎮めた後、落ち着いた声音で話しはじめた。
 
「俺らはさ…BeBap!はさ、今まで、自分たちが楽しむ事が第一だっただろ? それが間違ってるとは全然思わないし、楽しむことは大事だ。でも…一回だけ、今のエンターテイメントショーみたいに、お客さんを楽しませることに本気になってみないか? それが、俺がしたい事で、それがさっきの所信演説の根拠なんだ」
 
ラテ子は目を見開いて閉口した。
そして徐に俯き、その後暫く沈黙した。
崇は声をかけることなく、ジッとその場にいた。
 
「考えてみる」
 
不意に彼女はそう言った。
顔をゆっくりと上げると、ラテ子の顔には苦みの消えた微かな笑みが浮かんでいた。
そして再び言う。
 
「前向きに」
 
「ありがとう」と、崇も微笑んだ。
 

 
崇は、サークルの代表(総合プロデューサー)の信任投票が行われる日まで、地道にこの活動を続けた。
勿論、中にはその場で『絶対無理、そうなったらサークル辞める』と硬い決心を口にするものはいた。その現実は、想定していたとはいえ、崇の心を暗くさせた。
当たり前だけど、賛成する人も、反対する人もいる。
崇はそのたびに、大切なのは、自分の気持ちを真摯に伝える事だと考えて、説得活動を続けた。
 
そして、サークル総合プロデューサーの信任投票の日となった。
 
だが…
 
「えーと、他に立候補者はいませんか?」
 
真直ぐと手を伸ばしているのは、ただ一人、岡田崇だけだった。
 
サークルの皆は、閉口しその様子を見守る。
顔には、笑みが浮かんでいる人が多い。皆、何かを悟っている様子だった。
崇本人も、迷いの消えた、真率とした笑みを浮かべている。
 
沈黙が続く中、崇が不意に、その場に立ち上がった。
全員が崇に視線を向ける。
逆に崇は全員の顔を見るように首を回すと、意を決した様子で口を開いた。
 
「皆、俺に、やらせてください!」
 
勢いよく、バッと頭を下げる。
 
崇の声が消え、再び沈黙が現れる。
一秒、一秒と時間が経つにつれ、場の空気が重く、緊迫感を増していく。
 
その時。
 
パチ……パチ………
 
手を叩く音が聞こえた。
 
それを鳴らしたのは、ラテ子だった。
 
直ぐに、パチパチパチと続く。今度は修也が続いた。
 
次には、 バチン!バチン‼バチン‼‼‼ と空気を切り裂く破裂音がこだました。
手を叩いていたのはポチョムキンである。
 
そして、その場がたちまち割れんばかりの大拍手に包まれる。
 
ゆっくりと顔を上げる崇。
 
『崇の夢列車に、俺も乗ってみるわ』
                   『最高のエンターテイメント作ろーね!』
『途中で投げ出したらぶん殴るからな!』
                    『めっっっっっちゃ楽しみっ!!』
 
崇の表情に、溌剌とした活力が宿っていく。
希望で胸が目一杯膨らんでいき、瞳は輝きでまばゆく光を宿す。
全身に溜まっていく、そんな正のエネルギーを勢いに変え、崇は思い切り、もう一度頭を下げて言った。
 
         「ありがとう、みんなっ!!!!」
 
こうして崇は、BeBap!の代表(総合プロデューサー)の信任された。
 

 
その日からは、今までに増して繁忙を極めた毎日が始まった。
やることは山のようにある。
毎日、分刻みでのスケジュールをこなしていく崇。
 
サークルバンド、ンスティンダンストン、そしてサークルライブに向けた準備。
これに加えて、四年なので卒業に向けたゼミや論文製作、そして就職活動。
 
疲れたなどと言ってる暇もなく、ただ目の前のことをこなしていく事に精一杯。
 
光陰矢の如し。
一年があっという間に過ぎていく。
 
年末、崇はBeBap!代表としてとあるくじ引きに参加していた。
例年、東京中の大学が区民ホールを抑えにくるので、開催日時は抽選で決まるのだ。
そしてその結果。
 
崇が引いたくじは最下位だった。
 
大学最後のサークルライブは、土日を逃し、平日の中日(水曜)という最悪の日程になってしまう。
 
「お前…まじか」
 
何百もの仲間からの失望の目線の矢の嵐を受けながら、崇は誤魔化すように視線を斜めに向けて、不器用に笑う。
 
「い、いやぁ~、逆境って素晴らしいなぁ…む、寧ろ、最高の日程じゃね?」
 
皆から、世界中の落胆をかき集めた量の、落胆の溜息が吐き出された。
 
         『『『はあぁ…』』』
 
と、兎に角…!
 
      崇、最後のサークルライブが、目の前に迫っていた。
 

 
『サークルライブ』は、各大学、おおよそ年度末の同時期に催される。
BeBap!は、実力的に言えば中堅どころで、上智大学や早稲田大学といった学校が更に上に位置していた。
サークルの代表に立候補する時、皆に言ったように、今年の目的は『最高のエンターテイメントショー』である。
それはつまりは、上位に位置している大学を追い抜く質の高いサークルライブにするということだ。
そこで崇は既存の枠組みを破壊する必要があると考え、アカペラライブでありながら、アカペラ以外の部分に力を入れる戦略をとった。
現実的で客観的な視点で見たとき、アカペラのクオリティをより向上させても、音楽に精通していない観客には伝わらない。
批判を恐れずに言えば、“コスパ”が悪いのだ。
したがって、崇は他のクオリティを大きく上げ、他大学と差別化を図ることで、よりアカペラを引き立たせようとした。
 
具体的には以下の通りだ。
 
①演出で使う映像の量を通常の2倍に。映像はCG映像クリエイターに外注。
 
②入場時から没入感を作るために、会場スタッフにディズニー風の衣装着用を義務付け(例年はクラスTシャツの様なお揃いのTシャツ)
 
③大トリ全員合唱には生楽器(サックス、ピアノ、ギターなど)を投入
 
④楽器を入れるため、全員合唱の全体曲は自作(オリジナル曲であれば編曲を自由にできるため
 
崇は、まずサークル内で、その年のライブテーマを決めた。
 
コンセプトは「Thema Park」
 
テーマパーク(サークルライブ)に迷い込んでしまった主人公(観客)が、色々なアトラクション(バンドの演奏)を楽しむストーリー。ディズニーランドの様な世界観・演出で統一する方針となった。
 
次に、それに基づき映像クリエイターと綿密な打ち合わせ。ライブTシャツデザインの打ち合わせ。
 
そして、ンスティンダンストンにて、サークルライブに置いてメインとなる全体曲を作り上げた。
流行のjpopを全体曲にする通例のあるBeBap!にとって、この試みは斬新なものだった。
 
一つづつ、一歩づつ、けれども確かに歩みを進める。
 
このライブに全力を捧げた崇には、「楽しさ」だけが無論、存在するわけではない。
倒れそうな程の多忙による極度の疲れ、常に頭をフル回転させる毎日に、彼の脳髄は焼き切れる寸前だった。
また、十人十色のサークルメンバーと、代表として打ち合わせや、指示を伝える日々は、それほど簡単なことではなかった。
 
岡田崇は、人間という生物が壊れても何ら不思議ではない活動量をこなしていた。
 
そして、何とか彼は倒れる事無く、満身創痍に震える足で大学最後のサークルライブを迎える。
 

 
地面に、無数の王冠が生まれては消える。
その聖なる冠は金色に輝くことは無く、無色透明。
 
一方、だがそれは、法政大学アカペラインカレッジサークル『BeBap!』のメンバー皆の瞳には、絶望色に映っていた。
絶望色というのが何色かは、各々違う。
紫だったり赤だったり青だったり。
それぞれがそれぞれの絶望色に瞳を染めて、王冠を見ていた。
 
「…こんなことって…ないじゃんね…酷いよ…」
 
ラテ子が呟いた。
 
「平日中日の水曜日。天気はどしゃ降り。…これ以上ない悪条件が揃ったな」
 
修也がそう言って自嘲気味に苦く笑う。
 
「……ぅ………うぶ………」
崇は雨の粒をジッと見ながら、瞬きもせずに一人、何かを呟いていた。
 
「……ょうぶ………じょうぶ………だいじょうぶ………大丈夫」
 
脳裏には、この四年間の出来事が、走馬灯のように頭を巡っていた。
手に力を、ギュッと込める。
 
崇は振り返り、周囲にいる皆に穏やかな笑顔を見せた。
 
「さぁ、行こう」
 
一同は目を丸め、そして途端にリーダー同様穏やかな表情に塗り替えて、声を合わせる。
 
「おう!」
 
区民ホールに移動する。
天気と日程は最悪だったが、準備は完璧に進められていた。
やれることを着々と行う。
そして、全ての準備が終了した。
 
開演が残り十分に迫り、皆が一堂に会する。
 
「はぁ~、緊張してきた」
                     「僕も…何か吐きそう…」
  「な、ななななんか、体の震えが…!」
                       「落ち着けって!」
 
多くの人が、緊張で冷静でなかった。
 
ダッダッダという勢いの良い音共に、客席の誘導をしていた係りの一人が待機室にやって来た。
 
「客席、見た⁉」
 
皆は、その場で首を振った。
 
「…もしかして……ガラガラ?」
 
その女の子は、瞳に輝きを浮かべて首を振り、大きな声で言った。
 
「ううん……まーっいん」
 
「……え?」
 
女の子は「だから」と言って、言葉を続ける。
 
「ま! ん! い! ん!   満員!!!!」 
 
「………うそ」
 
「こんな時に嘘言ってどうすんのっ! お客さん、私たちを待ってるよ!」
 
女の子同様に、その場にいた一同の瞳に、聖なる輝きが浮かんでいく。
皆の体の強張りも、融解していく。
例年以上に、誰もがハードにサークルライブに打ち込んできた為に、各々の感慨もひとしおだった。
 
「今からだぞ」
 
それまで静観していた崇がそう言った。皆、崇の方を見る。
 
「最っっっ高のエンターテイメントショーを、見せてやろうぜ!」
 
崇は口角をクイっと上げる。
皆もその「クイっ」を自分の顔にコピー&ペーストした。
 
その場の全員の表情に、「やる気」と「闘志」の入力が完了する。
 
“ブー”という音が、ショーの開幕を告げる。
 
   「いくぞ」
                「おう」
 
そうして崇は、自分の手で作り上げたかけがえのない舞台へと、足を進めた。
その足取りはこの四年間で最も強く、そして自信に満ちたものだった。
 
岡田崇の大学生活の集大成が、ここに完結する。
 

 
2016年。三月某日。
BeBap!、大学四年生送別会会場にて。
 
『まじでヤバかったな。鳥肌。終わったのに余韻が止まらん』
 
          『BeBap!のライブ、本当に良かった!!』
 
『BeBap!半端ないって! あいつら半端な言って! 一介のサークルのライブなのに、ディズニー並のクオリティのエンタメ見せてくるもん! そんなのできひんやん普通』
 
崇はかれこれ三十分、スマホの画面を見て、ニタニタ顔を垂れ流していた。
 
「あのー、いい加減現実に戻ってこようぜ崇」と修也が言う。
 
「だってさ~、こんな大成功だぜ? 数ヵ月は余韻に浸れる」
 
サークルライブは、これ以上ない大成功をおさめた。
 
今までにないクオリティのエンタメショーは、その場の観客を魅了しただけでなく、噂が噂を呼び、既に伝説的なライブとして、アカペラ界隈の人々に広まっていった。
 
崇は大学生活を締めくくる最大のイベントを、最高の形で終結させた。
これまでの辛い経験の全てに意味付けがなされ、これ以上ない幸福感に崇は包まれている。
 
この四年間、ただ必死に今を生きて、自分が作った壁の高さに絶望したこともあったが、最後はこうして結果を残せたことに、崇は誇りを持った。
 
一方、隣にいる修也は、まるでそんな大成功など無かったかのような表情で言った。
 
「お前…もうすぐ社会ん人だぞ? 早よ切り替えろ」
 
「はぁ~。修也君は随分冷めてますね~。嬉しくないんすか?」
 
「嬉しかったけど、もう過去のことだしな。4月からの仕事の方に今は意識が向いてる」
 
「…」
 
崇の笑顔が数十分ぶりに消失し、ほんのりと真剣な面持ちが代わりに浮かんだ。
 
確かに、修也の言っていることも一理あった。
もう目の前に社会人が迫っている。
今までの学生の世界とは隔絶された、新たな世界。
 
正直、ンスティンダンストンでの活動に手ごたえを感じている今、崇が見えている社会とは、アーティストとしての未来だった。
 
___ププププ…
 
崇のスマホのアラームが鳴る。
「やっべ、もうそんな時間かっ」
慌てて止めると、崇は修也に言った。
 
「じゃあ、俺用事あるから行くわ」
 
「ういっす」
 
カバンを肩にかけ、慌ててその場を去ろうとする崇を修也が呼び止めた。
 
「崇」
 
ピタリと足を止め「…ん?」を振り向く。
修也は穏やかに笑っていた。
 
「お前との四年間、楽しかったぜ。…ありがとうな」
 
瞬間的に、崇の瞳が涙で揺らぐ。
ありがとうなんて言葉。言わなきゃいけないのは自分の方だ。
修也には、千回ありがとうと言っても足りない。
崇は涙を右手でゴシゴシと拭き取った。
崇は、本来言うべき感謝の言葉は口にせず、一言、満面の笑みで言った。
 
「俺も、死ぬほど楽しかった!」
 
二人はお互いに見つめ合った。
そして崇は顔を正面に向きなおし、その場を後にした。
 

 
ある男との待ち合わせの為に、崇は池袋に向かっていた。
 
その男は、人生最大のライバルで、最高の友人でもある。
名を、三浦健之介という。
 
先日、健之介から、数万ある日本企業のトップとも言える「電通」に入社が決まったと連絡がきた。
こちらの期待を裏切らない、寧ろそれを超えていく健之介。
サークルライブ大成功の余韻がある中でも、確かに健之介の存在は、崇にプレッシャーを与えていた。
健之介と会う時は、いつも希望と、そして不安が付きまとう。
 
改札を抜けると直ぐに、デカい図体が目に入ってくる。
崇は眉と口角をグイっと上げて、大きな声で言った。
 
           「健之介!」
 
彼は顔を上げて、直ぐに笑顔になる。
 
           「よっ! 崇」
 
幼稚園から続いた、彼らの教育期間は終わりを告げる。
そして、これから何十年と続くであろう、社会との戦いが始まっていく。
 
二人とも、自分のやり方で、戦うための武器や防具、魔法は修得してきた。
 
満を持して、岡田崇と三浦健之介の物語は、第二章に突入する。


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