第三章: 崇の奮闘記
2005年。
真夏___八月某日。 東京駅。
『腹いてぇ......時間ねぇ.........でも腹いてぇ... クソ、ヤバいヤバいヤバい、...時間ヤバい!』
東海道・山陽新幹線改札内のトイレ。奥から二番目のブースで、岡田崇は、全力で踏ん張ってい た。
崇は眉間に皺を寄せ滝の様に汗を流しながら、腹をじっと見つめている。
自分の胃腸の貧弱さを 呪った。
よりによって、このタイミングで来襲してこなくてもいいだろう、と...
今、腹の中では壮絶 な戦が行われ、臓器各種機関が奮闘してくれているのだろうが、崇はそれどころでは無かった。
「まもなく3番線に新幹線がまいります~危ないですので黄色い線の内側までお下がりください ~」
来た!! 到着したその新幹線は、崇と健之介の乗るべき東海道新幹線「ひかり」だった。
「やばいやばいやばいやばい」
崇は、痛みに耐えながら、お尻を吹こうと慌ててトイレットペー パーを「ガガガガ」と回転させる。
「ッチ。」
紙を切ったその瞬間。
『ギュルルルル~~ギュウ~』
腹の中で、再び合戦の合図の鉄砲玉が打ち鳴らされる。
崇は両手の拳をギュッと握り、顔をしわくちゃに歪ませて、言った。
「クソがっ!!!」
この日は、崇と健之介が初めて経験する、二人だけの旅行の日である。
目的地は愛知県長久手市の東部、愛・地球博記念公園。通称「モリコロパーク」。
「地球大交流」をコンセプトに、日本の万博史上最多の120を超える国々が参加して開催された 21世紀最初の国際博覧会 (EXPO)に、 中学一年に成長した崇と健之介は、二人だけで旅する 事にしたのである。
日帰りの旅行計画ではあったが、親が同席しない初めての「旅」という事で、数週間前から二人 はこの日をまちわび、ワクワクが全身を包み込んできた。 何日も前から綿密な打ち合わせを重ね、用意周到に完璧な旅行が待ってる。...はずだった。
トイレから慌てて出てきた崇を、健之介が出迎えた。
「おう、大丈夫か崇?」
「電車は!?」
健之介の質問に答える事無く、崇は血相を変えてそう言う。
一方の健之介は穏やかに返答した。
「もう出発した」
「えーーーー!!」
崇は叫んだ。
何人かの大人がこちらをチラッと見たが、崇にそれを気にしている余裕は無かった。
「ど、ど、ど、どうするのどうするの? え、新幹線代無駄になったってこと? え、ちょっと待って、 ...えーっと...と、とりあえず俺お母さんに電話するわ!」
今まで見てきた中で一番焦っているその崇の様子を見て、健之介はニヤける。
崇の肩に手をポ ンっと置いて、口を開いた。
「まぁ落ち着けって崇。とりあえず、窓口行って駅員さんに聞いてみようぜ」
崇は健之介を見て呆然としたが、ようやく少し冷静になり、「おぅ」と一言返答した。
結局その後、健之介が駅員さんと話をし、どうやら後続の新幹線の自由席に乗れることがわかっ た。
会話を進ませ、手続きをし、親に連絡するまでを健之介は黙々とこなし、崇はその後ろでそれ を見ている事しかできなかった。
乗り込む新幹線は直ぐに到着し、扉が開く。健之介は言った。
「さ、行こうぜ! 何とかなって良かったな」
「そうだな。すまん」
申し訳なさそうに口走る崇に、健之介は笑顔で「気にすんなって」と言った。
くそ...... 『コイツ、やっぱカッコいいな』
崇は、健之介のカッコよさに対し、誇らしさ、嬉しさを感じるのと同時に、どうしようもなく、『健之介 に負けてたまるか』という悔しさが自分の胸に存在する事もわかっていた。
各々が違った感情を胸に抱えながら、彼らは新幹線の中へと足を踏み出す。
二人の『旅』が始まった。
新幹線の席に座るやいなや、二人は徐にカバンからあるものを取り出した。
『NARUTO~疾風伝カードゲーム~』
崇と健之介はナルトのカードゲームにお熱になっている。
その中毒性は麻薬の様に二人を脳みそを惑わせ、最近は会う度にひたすらナルトカードの勝負をしていた。
作品内のキャラクターで言えば、崇はナルトの生き様が好きで、一方の健之介はサスケのクールさが好きだった。
この折角の二人旅の道中も、彼らは窓の外の景色を見る事は殆どなく、東京でいつでも出来るはずのカードゲームに没頭することで一瞬にして愛知に到着した。
愛知駅に降り立つと、時刻はお昼近くになっており、灼熱の太陽が二人を出迎える。
季節は夏休みに入ったばかりの八月。
少年の体には直ぐに汗が滲み始め、二人は溜まらずにバッグからポカリのペットボトルを取り出す。
二人の喉はリズムよく『ゴク、ゴク、ゴク』と波打った。
「ッパアア」
「ふぁ~、うっま!」
二人は、自分の血液に水分が行き渡るのを、全身で感じている。
「それにしても、やっぱ重いなカバン」
「な~。こんなん背負って歩いたら、一瞬で汗だくだよな~」
そう、崇の問いかけに健之介が応える。
彼らのカバンの中には、それぞれ5本ずつのペットボトルと、6個ずつのおにぎりが入っている。
この旅行の予算として、親から食費交通費込みのお小遣いとして3万円を持たされていたのだが、小学校を卒業したばかりの彼らにとって3万円の予算管理は相当ハードルが高い。
そこで二人は親と話し合った結果、事前におにぎりと水分を買い、それをしっかりとしたタイムスケジュールで消費していく事にしていた。
「まぁでも、ついに愛知・初上陸! だな!」
そう両手を上げる崇に健之介は言った。
「いや、俺幼稚園の時名古屋すんでたから」
「あ、そっか」
「...ま、行こうぜ」
「だな」
二人はそこから電車を乗り継いで、モリコロパークへと向かった。
この当時はまだスマホも存在せずに、ガラケーの着うた、着メロが流行っていた時代だ。 当然の様にアマゾンでの買い物は主流ではないし、YouTuberなんて言葉は形すら存在していない。
当時の小泉首相が郵政民営化を掲げ圧勝し、ホリエモンは「ハロー、YouTube」などと決め顔 を作ることなく、イケイケでTBSの株式をかき集めていた。
この先15年後に、共に起業する事など二人は当然知る由もない。
まだ目の前のナルトカードの勝敗が人生で一番大切な、そんな純粋無垢な十三歳の二人は、愛・地球博の展示内容に素直に感動していた。
「うわ~~、すっげぇ~!」
トヨタが主催するパビリオンに入り、崇はそう声を上げてた。
「これあれだ、バックトゥザフューチャーの車! 凄くね!?」
崇は昔から工学系には興味があり、将来の夢は宇宙工学に携わることであった。
「スゲェ!! テンション上がるな!」
一方の健之介は、特に学問的には興味はなかったが、兎に角「ワクワクすること」が好きな男である。
小学生での苦しく暗い日々を乗り越えて、その反動からか彼は、ひたすらに光の世界に手を伸ばす人間へと成長していた。
日立の3D体験。JRのリニアパビリオン。東南アジア、アフリカ、ヨーロッパ、世界各国のパビリオン。
現在へと続く、科学の知が確かにそこに集結していた。 様々な技術に目を輝かせていた。
そんな崇と健之介だったが、お昼を食べてから様相は変わってしまう。
ナルトカードゲームを挟んでしまったのだ。
どんなに純粋無垢な心を持っていても、本能には抗えない。
麻薬中毒者にとっては、感動的な映画のクライマックスで涙をながしてる最中であっても、目の前に薬をチラつかされたら、映画を中断するしかないのである。
二人はカードゲームを行うためにわざと列の長いパビリオンに並び、炎天下の中でひたすらナル トカードに熱中する。
あっという間に一時間、二時間と時間は流れる。
人生初めての冒険とも言っていい大切な時間を、アニメのカードゲームに費やすことは、本来は 愚かな事なのかもしれない。
映画や漫画であれば、こんな時にこそ生涯のライバルや、ヒロインに出会ったり、万博を狙う悪者を退治するストーリーであったり、運命的でかつ有意義なかけがえのない時間を過ごすことにな るだろう。
しかし、現実世界の岡田崇と三浦健之介は、初めての冒険という貴重な機会に、貴重なエピソー ドを乗せる事は出来なかった。
おにぎりとペットボトルの空を生み出しながら、楽しい旅行の時間は終わりへと近づいていった。
夕方の4時。
最後の、もう味の変わりかけたおにぎりを胃の中に放り込む。 帰りの新幹線もあるので、そろそろ会場を出ないといけない。 二人は名残惜しくもモリコロパークに別れを告げて、新幹線で東京の現実世界へと戻っていった。
帰りは二人ともクタクタで、新幹線の中では殆ど寝ていた。
地元の駅に着く頃には辺りはすっかり闇に包まれていた。
電車の中も人はまばらで、旅の終わりらしい妙な静けさが辺りを包み込む。
西武池袋線の保谷駅。
先に降りる健之介が、席を立ち上がった。
「じゃ、今日はお疲れな」
崇はあくびをする口を手で覆いながら言う。
「おう~、まじでお疲れ~、楽しかったわ」
「じゃ、また今度」
「おう、またな~」
二人はそうして別れた。
崇は寝ぼけ眼で、心地よい気持ちに包まれいてた。
程よい疲労感と、親友と時間を共にした満足感。
崇も電車を降り、家までの道中を鼻歌を歌いながら歩いた。
「頼りなく、二つ並んだ~、不揃いの影が~ 北風に、揺れながら~伸びていく~」
住宅街はシンと静まっており、崇の歌声と遠くで吠える犬の声だけが街灯に照らされた道を包んでいた。
「さぁ~、手を繋いーで僕らのいまが、途切れない様に~ その香り、その身体 その全てで僕は、生き返る~...」
ご機嫌で家に着くと、リビングでは母と妹がテレビを見ている所だった。
「おかえり崇」
「兄ちゃんおかえり~」
「ただいま!」
崇は二人の顔を見て安心した気持ちになる。
崇は思う。 やはり家族っていいな、と。
家にいれば家族とよく話をするし、一緒にいて心地が良い。
噂によると、中学生位の年頃になると、反抗期というものがくるらしい。
親と関わりたくなくなり、 ちょっとしたことでもイライラするという現象。現に、中学の同級生の話を聞くと、そういった人は既 に何人かいて、親とは口も聞かないみたいだ。 崇には、全く理解できなかった。
なんで自らそんな面倒くさく煩わしいことをしなければいけないの か。
家族は仲良くいた方が良いに決まってる。
崇は一日の出来事を母と妹に話をして、家族団欒の時間を過ごす。
「そう、良かった。健之介君元気になったんだね」
小学校の一件を知っている母は、そう言って安堵していた。
「いや、もう元気になりすぎだよ。もう少し大人しくしてて欲しいくらい」
「兄ちゃんには言われたくないって、健之介君も思ってるはずよ」
妹の尚子が、目を細めて言う。
「尚子、お前! 兄貴の俺より健之介の肩持つのかよ~!」
「本当の事言っただけじゃん」
「何をー!」
「何よ!」
視線を交差させる兄弟の横で、母が「っぷ」と息を漏らした。
崇と尚子は顔を横に滑らせて、母親を見る。
「私の息子の事だけど、確かにうるさいのは崇の方かもね」
クスクスとそう言う母の顔を見て、浮かない表情の二人の顔にも、一瞬の間を開けて笑顔が咲い た。
「母さんまで! ひでぇ~!」
「わかった兄ちゃん!? これが正当な評価なの!」
「はいはい、わかったよ。うるさい男はお風呂にでも入って寝るよ」
崇は腰を上げ、リビングを離れた。
一日の疲れを湯船に放流させながら、崇は幸福に浸っている。
特別な事はないが、俺には家族がいて、親友の健之介がいる。
そんな何気ない日常が最高に楽しい。 崇は今日一日を振り返り、健之介の顔を思い浮かべると、ニヤリと笑い勢いよくバシャンと湯船 に潜り込み、20秒ほどして再びバシャンと顔を浮上させ、叫んだ。
「あいつには負けてられねぇ! っしゃー、頑張るぞ!」
リビングからの笑い声が微かに聞こえてくる浴室の中で、崇は無限の未来に胸を膨らませなが ら、そう誓った。
愛・地球博にいってからの数日は、崇はエネルギッシュに活動していた。
サッカー部ではレギュラーを目指し一生懸命練習し、あまりやってこなかった勉強も、今までよりは真剣に取り組むようになった。
小学校では健之介に差をつけられてしまったけど、中学生の内には逆転してやる! あいつより サッカーが上手くなって、有名になる!
崇はそう闘志を燃やしていた。 毎日が充実し、悪くない中学校のスタートを走り出していた。
そして、健之介との旅行から一ヵ月余りが過ぎたころ。
夏休みが終わり、二学期が始まり丁度一週間が過ぎた週末の土曜日。
崇にとって忘れもしない一日が訪れる。 それは良い意味ではなく、悪い意味である。
人生最悪の日の一つと言ってもいい。
その日は部活は休みで、朝から家で漫画を読んでいた崇であったが、突然母に「東久留米のおばあちゃんちに行こう」と言われた。
断る理由もなかったので、二つ返事に「良いよ」と言い、母の運転で妹と一緒に祖父の家へと向かった。
祖父の家に行ったところで、暇なのは目に見えていた為、カバンにはPSPや漫画などの暇つぶしをしっかりと用意する。
車に乗り込んで、母の運転で向かい、祖父母の家に着く。
到着して早々、祖母に、家の手伝いを頼まれて、崇と尚子は外で仕事をした。
頑張ったらいっぱいお小遣いあげるからと言われ、二人はやる気を出す。
小屋の片付けなど、力が必要な仕事は崇、草むしりなどは尚子。
二人は仕事に熱中し、その間、母親と祖父母は家の中で何やら話し込んでいた。
1時間あまりが経過し、そろそろお昼ご飯になりそうな頃合いで、崇と尚子は祖母に呼ばれた。 崇は程よい充実感を抱え、家の中に入っていく。
洗面所で手を洗い、居間に入った瞬間、何か気持ち悪い感覚に襲われた。 何か、いつもと違う雰囲気。 母と祖父母は椅子に座っていて、皆、今まであまり見たことが無い、陰鬱な表情をしている。
そんな空気を感じ、足を止めた崇と尚子に、祖父が言葉をかける。
「崇、尚子。...昼ご飯の前にちょっとお母さんから話があるんだ。座ってくれ」
そして崇と尚子の子供二人は、母と祖父母の前に座らされる。 苦しそうな表情を浮かべた母から発せられた言葉は、一つの決定事項だった。
それは_____父と母の離婚だった。
『___離婚?』
その瞬間。 崇の頭が真っ白になった。
脳が、事実を受け付けようとしない。
崇に起こった衝撃。それは例えるなら戦争だった。 言葉では知ってるが、自分に降りかかるとは思っていない事象。 日本人が、まさか日本で戦争が起こるはずがないと思っているのと同じように、崇はそんなことが 起こるなんて予想だにもしていなかった。
『離婚』という言葉は知っていたが、自分とは関係のない世界の言語だと__。 なぜならば岡田家は、昔から家族愛が強い家庭だったから。
少なくとも崇はそう思っていた。 父は気難しい性格だったが、それでも家族としてかけがえのない存在だったし、離れ離れになる なんて選択肢は、頭によぎったこともない。
家族の絆。
自分が確信していたものが、虚構だと分かった時の絶望感は想像を絶する。
崇の胸にまず初めにこみ上げた想い。それは己への憎悪だった。
『なんで俺、そんな......大事な事に気づけなかったんだ?』
思い返してみれば、確かに父と母の口喧嘩は増えていた気がしたが、そんな事気に留めもしな かった。
問題ない、何ともないと、盲信してた。 ただの痴話げんかだろって。...アホみたいに、思ってた。 毎日部活して、遊んで、寝て。それの繰り返し。自分の事しか見えていなかった。 俺がもっと早く気づいてたら、何とかなったかもしれない。
俺は長男なのに__。 尚子と一緒に、母さんと父さんに、『俺らがもっと良い子でいるから』と言えば、どうにかなったの かもしれない。
可能性は十分にあった。その貴重な時間を俺は何をしていた?
健之介と旅行に行って、勝手に一人で人生に盛り上がって。自分がどうなりたいかしか頭にな かった。
健之介に勝つ?そんなの、クソどうでもいい。
家族の存在と比較できる事じゃない。家族が離れ離れになるのに比べれば、取るに足らない事だ。
俺のせいだ。
俺がもっと頭が良ければ。周りが見えてれば。こんなことにはならなかった。
崇は自分の力の無さ、能力の無さに落胆し、失望し、どうしようもない怒りを感じていた。 自室の部屋で、何度も机を叩き思う。
『なんて価値のない人間なんだ......おれは...!!』
希望は消え、絶望だけが存在を増していく。
崇は自分を責め立て続けた。 振り返ってみれば、幼稚園の時が自分のピークだった。
誰もが自分の後についてきて、誰からも好かれて、どんなことにも気づいて、物事を最良の方向 に導けていた。
健之介との出会いもそうだ。
でも、小学校に上がり、学年が上がるにつれて、自分よりも能力のあるやつは増えてった。
一番だった足の早さは3番になり、ダントツだった女の子からの人気も、今ではイケてる奴の一人 位に落ち着いている。
何より、健之介との差は広がる一方で、もうあいつははるか先に行ってしまっている。 あいつに勝てる部分が、自分自身でも分からない。 幼稚園の頃は、俺の方が前にいたはずなのに...。 あいつだったら。健之介だったら、もっと上手くやっていただろう。
自分のスペックの低さに、ほとほと失望する。
親の離婚から派生した負の思考は、崇の脳を蝕んだ。
自らの些細な欠点に、一つ一つ裁きを与え、まるで死刑囚に判決を言い渡すかのように無慈悲 に己を攻め立てた。
現実世界では、食は喉を通らなくなり、生きるエネルギーは失われる。
体重は直ぐに5キロ減り、元々華奢な体質だった崇の風貌は見るに堪えないほどこけていく。
そして離婚が決まると同じくして、崇と尚子の転校が決まった。
久留米の祖父母の家に住むことになり、二人は母に引き取られて生きていく事になった。
一瞬にして、全てが変わってしまった。
愛・地球博に行き、希望に胸を膨らませていた崇は死んだ。
代わりに生まれた新しい崇には、もう、未来なんて暗くて全く見えなくなってた。
絶望に浸り、悲壮感を目に宿しながら自分を呪う毎日。
廃人になりながら引っ越しを終え、そして新たな学校に行かなければ行けない日が来た。
転入初日。
二階の自分の部屋のドアを開けると、丁度尚子も部屋から出てきた所だった。 久々顔を見合わせた二人だが、お互いの顔を見て、どうやら自分と同じ状況だという事を瞬時に 悟った。
この苦しみを抱えている人が、自分以外にもいる。
そのことが、二人にとっては唯一の救いだった。
その救いが辛うじて二人の足を新たな学校に向かわせる原動力となり、二人は家を出た。
崇と尚子には考えなければならないことがある。 転校生としての振る舞いはどうするべきか?
本来ならば、教室に入り元気よく挨拶をし、クラスのヒエラルキーや温度感を正しく見極めて、自 分の居場所を探っていく。
出来るだけ敵を作らず、愛想よく、出しゃばりすぎない事。
それがその後の学校生活を円滑に進めていく最適な行動。
しかし、崇が実際にした行動は、その真逆である。
いや、せざるを得なかったといった方が正しい。
目に悲壮感を浮かべ、誰にも聞こえない様なか細い声で自己紹介をする。
クラスメートの事など気にする素振りもせずに、ひたすら自分への嫌悪感に浸っていた。
与えられた椅子に座り、何処にも焦点の合っていない目で空を見つめる。
崇に転校生としての新たな生活のための振る舞いなど、考える余裕はなかった。
その日、ひたすらに陰鬱な表情を顔に浮かべていた転校生に、声をかけるクラスメイトいなかっ た。
毎日...毎日......崇は思う。
俺は孤独だ......俺は一人だ......俺は弱者だ......... 俺には何もない。
虚無と絶望に支配される中、助けを求める様に、崇は一度だけ健之介に連絡を取ったことがあっ た。
電話の向こうから、『おう! どうした崇!』 と明るく希望に満ちた声が聞こえた。
その声に、崇は懐かしく感じる一方で、何故か胸がキュッと締め付けられ、苦しくなった。
もう、健之介と無邪気に遊んでた時とは、何もかも世界が変わってしまった。 あの頃には戻れない。
崇はそう思いながら、無理やり明るい声を出す。 健之介からは、新しい学校の友人の頭の良さ、家柄の良さなどの話を聞いた。
崇は、聞いていられなくなった。 用事があると言って、電話を切った。
そしてそんな日々が続き、転入から5日たった頃。
丁度午後の授業の始まる時だった。 相変わらず崇は死んだ魚の目をして心ここにあらずという雰囲気を醸し出していた。
クラスメイトは触らぬ神に祟りなしと言わんばかりに崇などいないかの様に無視している。
そんな空間の中。 突然崇の左肘に、コンと何かがあたる。崇は呆然としながら、首を左へと回した。
「これ」
崇は、その時初めて隣の奴の顔を見る。
初めてみる顔の男が、教科書を崇に差し出しそう言った。
眼鏡で、髪の毛が長くぼさぼさの冴えないやつだった。
学校ではいつ振りかも分からない程久しぶりに、崇は言葉を出した。
「...え...何?」
眼鏡は目線を崇には合わせない様に斜めに落としたままでいう。
「今日、8日だから。岡田君、8番でしょ。次の英語の授業指されるから、これ写して」
ぶっきらぼうな貧弱な声が崇の耳に入る。
なんでいきなりそんなことを言ってくるのか分からずに、崇は呆然と眼鏡を見ていた。
眼鏡は堪らずに、言葉を続けた。
「やってこないと、あの先生怒るから。あの人の金切声は聞きたくないんだよ」
「...あ...りがとう」
崇はそう言い、教科書を受け取った。
何だコイツ。
崇はそう思いながら、ぼうっと教科書を見つめる。
眼鏡のいう通り、崇は50歳くらいの目のキツイ女の教師に指名された。
崇は写した通りに日本語訳を読む。女教師は満足気にしていたようすだった。
どうやら訳は完璧 だったようだ。
そのまま授業が終わり、下校の時間がやってきた。
みんな一斉に笑顔が弾け、周りの友達と楽しそうに話始める。
崇には、当然ながら友達は一人もいない。
そして、眼鏡にも話しかける人間はいなかった。
眼鏡は下校の準備を黙々とし、そして教室を出た。
そのとき。崇の足が無意識に動いた。 教室を出た彼を追って、そして呼び止めた。
「おい、眼鏡...!」
眼鏡は振り向く。眉間に皺を寄せて、相変わらず目線は合わせない。
「......僕?」
不機嫌そうなその声。崇は言った。
「何で?」
眼鏡は返答する。
「...なにが?」
崇は自分の質問が具体性がなかった事を認識し、一言付け加えた。
「あ、いや...教科書」
眼鏡はそれを聞くと、息をフッと鼻から吐いて言う。
「だから言ったじゃん。あの先生が怒る声が聞きたくなかったって」
確かに、そうだった。
崇もそれはちゃんと聞いていたのだが、それだけの理由で彼みたいなコミュ ニケーションが苦手そうな人間が話しかけてくるのか。 本当はそれが聞きたかったのだが、崇はそれを呑み込んだ。
「...そうだな」
5秒ほどの間があり、眼鏡は反転する。
「...じゃあ僕帰るから」
崇は力なくいう。
「あぁ...」
眼鏡はそのまま足を進めた。
一歩。二歩。三歩。
そして四歩めを踏みしめたところだった。
彼は足を止め、一言いう。
「ナルト」
崇は突然の事に驚き、「えっ?」と口走る。 眼鏡はこの時、初めて顔をあげた。そして崇の目をぎこちなく見つめると、言った。
「ナルト.........好きなの?」
崇は呆然とした。
なんでここでナルトが出てくるのか...。
「......うん」
そう返事したところで、崇は前に健之介と買ったナルトのキーホルダーをカバンに付けてる事を思 い出す。
視線をキーホルダーに向けた。
そこにはしっかりと螺旋丸を手に溜めたナルトがいた。 そして視線を眼鏡に戻したら、彼も自分のカバンについているキーホルダーを握り締めていた。
「そっか。僕はサスケが好きなんだ。...これ」
眼鏡のカバンには、千鳥を溜めているサスケがいる。
その瞬間。
崇の瞼が僅かに上がる。 崇は自分の心臓が温かくなるのを感じていた。
じんじんと次第に温度は上がっていく。 とても心地よく、とても懐かしい感情。 崇は自分の体と心の異変に気を取られ、言葉を出せずにいた。 そんな崇に、眼鏡は言う。
「じゃ、また明日」
眼鏡は反転し、足を進めていった。崇は慌てて言葉を返す。
「ま、また明日」
崇は眼鏡がいなくなった間も、暫くそこで呆然と佇んでいた。
学校から帰宅した崇は、いつも通り、ベッドの上、大の字で屍になった。
ここ数日は、このまま寝るまで、死体の様に横たわるだけだ。 夕食の時は、家族を心配させないために下に降りていったが、ご飯も茶碗1/3杯程食べるのが、この時の崇の精一杯だった。
ところがこの日、崇がベッドから起き上がったのは、夕食より大分前の夕方4時過ぎだった。 徐に腰をあげた崇は、トボトボと歩き、本棚の前に腰をおろす。
崇の腕がゆっくり上がる。そして人差し指でゆっくりと、ナルト第一巻を手前に取り出した。 ぱらぱらと捲り、全体を眺めた後、崇は最初から、それを読み始めた。
崇はナルトを全巻そろえている。 小学校の時はクラスメイトや健之介と、ナルトやワンピースの話でよく盛り上がったものだった。 健之介とは、ナルトごっこと称し、よく戦いゴッコをやっていた。
いつも崇がナルトで、健之介がサスケ。
2005年前後は、丁度単行本ではサスケ奪回編がやっていて、ナルトの盛り上がりはピークに達 してた時代だった。
崇は没頭する。夜ご飯も食べずに、30巻全てを読み終わった。
崇は最後のページを読み、そっと本を閉じると、フーっと息を大ききく吐いた。
『やっぱり、ナルトって最高だ』
崇の胸には、少しだけ、希望が溢れていた。 首を回し掛け時計を見上げると、時刻は深夜3時半を回っていた。
「やべっ、早く寝ないと!!」
崇はそう言って慌てて布団に入ったが、胸が高鳴って、暫くの間は眠ることができなかった。 崇は寝不足で次の日の学校を迎える。
その日から、崇は隣の席の眼鏡の男を観察し始めた。
眼鏡の名前は「倉持優太」というらしい。 しかし、観察量に比べ、崇が得られた情報は少ない。 分かったことは、彼に話しかける人は一人も現われなかったという事だ。
彼は、クラスから浮いた存在だった。 優太は、陰キャラと学園社会の中でカテゴライズされるだろう。
誰にも話しかけられず、誰にも話さず、髪はぼさぼさで黒縁眼鏡。 休み時間も一人で本を読むだけの、特段特徴のない人間。
だが何故だろう。
そんな彼に、優しくされただけで、何であそこまで心が温まったのか。 崇自身にもわからなかった。 ただ何となく、陳腐で退屈に感じられる世界の中で、優太が休み時間に一人で本を読んでる姿を 見ると、とても落ち着いた。
そして崇は漠然と決心した。
『明日___あした、優太に話かけてみよう』
次の日。
崇のカバンはパンパンだ。 中身は、ナルト全巻セットと、ナルトカードの第一デッキと、第二デッキ。 教科書など一冊も入る隙間はない。
『優太が好きなのはどこだろ...リーとガアラ? ナルトとねじ? それとも...』
登校途中、崇は5キロを超えるカバンを背負いながら、一人でキモチ悪く笑った。
学校に到着する。直ぐに優太が登校し、隣に座った。
崇はチラチラと彼を見る。
結局その日、崇は終始そわそわしていた。 多分、優太の性格上、学校で声をかけられるのは嫌だろう。
だから優太が帰った時に、ある程度学校から離れた所で声をかけようと、そう考えていた。
引っ越す前は、学年一のマドンナに話しかけようが緊張しなかった崇だったが、この日は落ち着かなかった。
登校途中までは、二人で盛り上がることを想像していたが、柄にもなく、もし声をかけて冷たくされ たらどうしようかなんてことを心配し始めていた。
キーンコーンカーンコーン
午後の授業が終わるカネがなり、皆が一斉に立ち上がる。 優太はいつも通り、机の中の教科書をカバンに入れると、そのまま誰とも話をせずに教室を出る。
崇はその後をこっそりと追った。
昇降口を出て、そのまま校門を通過する。 この時点では、まだ殆どの生徒が校内にいて、辺りに人は疎らにしか確認できなかった。 優太の家は何処なんだろう。
まぁ、あの角を曲がって、学校が見えなくなったら声をかけよう。
崇はそう思っていた。
優太はスタスタと歩きながら、徐に両手で前髪をかき上げる。 そしてそのまま長い前髪を後ろで束ね、そして眼鏡を外した。
_______え?
彼らしくないその素振りに、崇は違和感を感じた。 チラッと見えた優太の眼光は鋭く、まるで崇の知らない別人に突然変わってしまったようだ。
角を曲がった優太を、崇は慌てて追跡する。崇の胸をザラリと嫌な感触が撫でる。
優太は少しすると、二人の男と合流をした。 その二人は、170cm程の優太より10cm以上大きく見える。そして耳にはピアスをあけ、学生服 はボタンを全開で着崩し、どう見ても素行の悪い人間の様だった。 優太を中心とし歩みを進める三人。
崇の足は一度止まる。
どうゆうことだ......なんだ優太はあんな奴らと......
崇は10秒ほど何かを考えた後、その足を徐に前へと進ませ始めた。
得体の知らない生物に遭遇しているかのような感覚。恐怖心と好奇心が崇を包んでいた。 胸のざわつきは、歩くたびにに大きくなっていく。
歩き始めて10分ほどした所で、三人は人目のつかない路地の方へと曲がっていった。 悪い予感があからさまな形で的中していく。
もう夏も終わりに近づき、その日の気温はそこまで高くなかったが、崇の額から汗が一筋流れ落ちた。
恐る恐る、優太たちが入っていった暗く狭い道の中に、崇は足を踏み入れる。 その一歩目で、直ぐに先から微かに声が聞こえくるのがわかった。
『.........ぅ ゙..................う ゙.........うあ ゙...』
闇の中。人間の放つ、鈍く汚れた声。その音は次第に大きくなっていった
この時、崇はもうすでに確信していた。
この先で、誰かが袋叩きになっている。大多数による、一方的な暴力。 そして、その主犯格の中に、優太が混じっている。
崇は混乱した。
____何故? 学校ではあんなに大人しい優太が、何で? そう問いかけながら
崇の足はピタっと止まっていた。
頭はパニックに陥り、そしてその足は震え始める。
好奇心でここまでついてきてしまったけど、おそらくもう引き返した方がいい。 俺が想像していた倉持優太という人間は、実際にはそれとはまるで違う人間だろうということは、 もう明白だ。関わらない方が、、いい。
この先に足を進めて、自分が無事でいる保証はない。一人で輩の中に飛び込んでいっても、俺に 何かできるのか?
この時、久しぶりに崇の頭から、離婚による苦悩が消えていた。 目の前で起こる事への恐怖が、それを瞬間的に忘れさせえていた。
鈍い叫び声をバックグラウンドミュージックとしながら、崇は呆然と立ちつくしていた。
路地の暗さに目が慣れてきて、闇の向こうの光景が崇にぼんやりと入ってくる。 案の定、男が何人もの輩に囲まれて、ボコボコにされていた。 崇の胸の鼓動はどんどん早くなっていく。
そんな時だった。
空っぽだった崇の心に、なぜか不意に、一人の人物の姿が浮かび上がってきた。 最初は影だったそのぼんやりした姿は次第に鮮明になる。 そしてその人間が誰かわかった時、崇は眉間に皺を寄せた。
三浦健之介。
自信家で、ファッションセンスがダサくて、ムカつくけど俺より運動神経が良くて、そして俺を世界 で一番やる気にさせてくれる、唯一無二の存在。
崇の無意識が、健之介の姿を浮かび上がらせていた。 崇は何でこんな時に健之介の事を、と思ったが、それと同時に一つの問いが、頭の中に投げ入れられてしまった。
『あいつ。...健之介だったら、こんな状況で、、どうすんだろ?』
一歩引いた崇の右足。気持ちとしてはこのまま帰りたい想いが強かった。
このまま体を反転し、引き返すのが常人の選択だろう。 この先にイジメられる人間がいようとも、漫画みたいに誰かを助ける主人公になれるはずなんて ない。それに第一、何人もの奴を返り討ちにする力も俺にはない。 崇は必死に、逃げ去る友の姿を想像しようとした。
『お前だって、、健之介だって、そうするだろ...!......逃げるだろ!!?』
崇の理性は、彼を逃がそうとしていた。 しかし虚しいことに、どんなに力をふり絞っても、その光景が脳裏に宿ることはない。 逃げる友の姿は、崇に想像することはできなかった。 崇が想像できた唯一の光景は一つ。
歩みを『前』へと進める友の姿だった。
『たかし、お先っ』
健之介はそう言い、笑って歩いていく。 崇は拳をギュッと握り締める。
ここで_____もしここで逃げ出したら、本当に俺には何も無くなる気がする。 健之介と、もう決して対等にいられなくなる気がする。
崇は今にも引きちぎれんばかりに眉間に皺を寄せ、小さく一言零した。
「.........まけてたまるか...」
崇は拳にさらに力を入れると、唇を小さく動かし続ける。
「負けてたまるか...負けてたまるか...負けてたまるか...負けてたまるか」
いつの間にか、何度も何度も、無意識にその言葉が零れていた。
そして、震える唇に無理やり力を入れ、最後にニヤリと笑う。 引いた右足にギュッと力を入れる。そして歩みを前へと進めた。 理性より、本能が勝ったといってもいいかもしれない。 健之介に勝つ事は、崇にとっては本能である。
闇の先。覚悟を持ち歩いた先に目に鮮明に飛び込んできた光景は、胸の痛むモノだった。 崇は、目の前の惨劇に思わず目を見開く。
餌食は2人。捕食者は5人。
餌食にされた男2人は、体中を殴打されていた。その顔面には、涙が乾いた白い筋が残されてい て、意識も朦朧としている様子だ。
2人は脅えきった子猫の様な顔で、「ごめんなさい...」と何度も呟いている。
崇の胸が、ぎゅぅーっと締め付けられた。
一つは目の前の光景に。 そしてもう一つは、捕食者のリーダーが、崇の胸を温めてくれた隣の席の男という無慈悲な事実に。
信じていた心を、ハンマーで潰された気持ちになった。 音を立てずに呆然と佇む崇。背中のリュックの重さも忘れていた。
「誰だお前?」
崇に気づいた輩の一人が、そう口を開いた。 崇は他の奴らを気にすることない。
崇が見てる人物はただ一人。 サスケが好きだと言い、教科書を貸してくれた隣の席のやつだった。 崇は静かに声をふり絞る。
「...何してんだよお前」
優太は崇に気づいたが、表情は一変も揺るがなかった。そしてゆっくりと口を開く。
「なんでつけてきた?」
崇は返答する。
「優太と......お前と...友達になりたいって...思ってたんだ .........これを見るまではな....................................これは...なんだよ?」
優太は動揺することなく、平然と答えた。
「悪いものイジメ」
周りの輩は崇と優太の事をじっと見つめていた。 崇は両手に力を入れ、喉から振り絞るように返答する。
「...イジメなんて止めろよ」
その言葉に、優太は口を噤んだ。辺りを静寂が包む。 何かを考えてるようだったが、何を思っているのかは、崇にはわからない。
そんな中、輩の一人が、崇の近くまで足を進める。目を見開き、額に血管を浮かべそいつは口を 開く。
「優ちゃん、コイツやっちゃっていいよな?」
崇の足がぴくっと動き、そして心臓が大きく一つ弾んだ。
優太の言葉次第では、数分後には俺は床に転がるコイツらの様にボロ雑巾にされる。 全身の筋肉に、自然と力が入る。
すると優太は、目線をスッと移し、崇を見つめ、そして言った。
「...岡田......崇...だっけお前。一つ勘違いしてるぞ」
優太は地面に這いつくばる男を、死にゆく虫を眺めるかの如く冷たい視線を浴びせ、言葉を続け た。
「コイツらは、殴られるに値する、クズだ」
優太はそう、言い切った。そして、崇を見て言葉を続ける。
「このクズ共は、俺らの隣の北東中の奴で、イジメを繰り返してんだ。気弱な奴をターゲットにし て、水をかけ、乱暴に殴り、パシリに使って。挙句の果てには、親からカネを盗ませ、その子は不 登校になったらしい......なのに、コイツらはのうのうと生きている...
崇、コイツらの事は人間と思わなくていい。虫と同じだ。虫なら文句はないだろ?」
優太には、足がすくんでしまう程の負のオーラがあった。 眉間には皺を寄せ、目を吊りあがらせ、自分の正しさを確信してるかのような表情。
まるで学校にいた時の彼とは別人で、二重人格であるかのようだ。 緊張、恐怖、怒り。そんな感情が体中を渦巻き、張り裂けそうな胸の鼓動を抑えながら、崇は言 う。
「だとしても、やりすぎだ。ここまでやる必要なねぇだろ...」
ここで、言葉を止めておけば良かった。 しかし、人間そのものを否定する優太に、崇は言い返せずにはいられなかった。 存在しちゃいけない人間なんて、いないんだ...。
「お前らは結局、この二人とさほど変わらねぇ...虫だ」
言葉が空気を伝って、その場の皆の鼓膜を振動させた瞬間。
その場の空気が一瞬にして沸騰する。
『なんだとテメェ!!!』 『もういっぺん言ってみろ!!』 『ぶっ殺すぞ!!』
輩は一斉に崇の元に近寄り、胸ぐらを掴んで激しく崇を揺さぶった。
優太一人がその場から動かず、表情を変える事無く、短く一言、言葉を発した。
「...残念だよ、岡田......くん」
優太は右手を静かに上げる。崇と優太の目線があった。
三秒間。 視線を合わせてその時間が経った瞬間に、優太は勢いよく右手を振り下げた。
「やれ」
その言葉を合図に、崇の胸ぐらを掴んでいた大柄の男は勢いよく右手を振りかぶり、それを崇の 顔面目掛けて振り下ろす。 優太も、床に這いつくばってる男と女も、優太の仲間の輩達も、誰もが崇がそのまま吹っ飛ばされる事を疑っていなかった。
しかし、その場に響いたのは、人が殴られる鈍い濁音ではなかった。
『パシッ』
そう、乾いた音が場に響き渡り__そして、辺りは瞬時に静まり返る。
優太は、自分の瞳に映る光景に、この日初めて瞼を僅かに上げた。 そこには、右の掌で相手の拳を受け止める、崇の姿がハッキリと写りだされていた。 崇は、スーっと空気を大きく吸い込むと、それを一気に吐き出しながら叫ぶ。
「目ぇー覚ませ!! お前ら!!!」
輩どもの肩が、びくっと震える。
崇は受け止めた拳を乱暴に振り払うと、眼光鋭く優太を凝視した。
「優太、お前にとっての...いや、お前らにとっての正義ってなんだよ?」
驚きの表情をしていた優太だったが、その言葉を聞くと目を細めて強く、返答する。
「正義...? そんなのは決まってるさ。悪い奴を叩きのめす。それしか__
「金を取る必要はあるのか?」
崇は、優太の言葉を遮りそう言った。
優太の目には、床に落ちている財布が映っている。
その財布は中身が全て抜かれており、ボコボコにされている奴らの物だという事は直ぐにわかっ た。
崇は言葉を続ける。
「いくら悪いことをしたからって、大勢でリンチにする必要があるか?」
言い終わった後、崇は優太に視線を移し、眼力強く彼を見つめる。
優太は少し口を噤んだ後に、ゆっくりと言った。
「こいつらは、それに相当するだけの事をしてきた。自業自得だろ?」
「俺はそうは思わない。気づいてるか? お前は、コイツらと同じ事やってんだぞ!!?」
崇はそう即答すると、歩みを優太の方へと進めていく。
パタ、パタ、パタ、と音が鳴り、一同はその様子を黙って見つめている。
パタ。
最後の一歩が鳴り、崇は優太の目の前に佇んだ。
そして、優太の傍らに置いてあるカバンについている、キーホルダーをガシッと鷲掴みにすると 言った。
「こんな事やんのか? お前の好きなうちはサスケは、こんなやり方すんのかよ!?」
優太の眉尻がピクっと動く。
目は赤く充血していき、奥歯をギュッと噛みしめる。 崇は、恐れる事無くその目を正面から受け止めると、今度は絞り出すように小さく語った。
「勿体ねぇよ、お前ら。折角、弱い者の為に立ち上がる勇気があるってのに...やり方が間違って る。少なくとも俺の知ってるサスケが好きなダチは、こんなダサいマネは絶対しねぇ...」
一同は、崇のその言葉を、各々の感情を顔に貼り付けて聞いている。
崇は腕をスッと上げた。 優太を指さし、首をゆっくりと回し、そこにいる全員の顔を見ると、今度はうるさい程聞こえるよう に言葉を続けた。
「お前らも聞け! お前らの理想とするヒーローってのは、こんなやり方で罰を与えるのか!? こんな主人公の漫画見て、お前らの胸には希望が宿んのかよ!?」
輩は皆、目を見開いている。喉に何かがつっかえているかのように言葉が出せない。
「お前ら、本物のヒーローになれよ!!」
崇のその言葉に、あたりはシーンと静まりかえった。 10秒ほどしてようやく、輩の中の一人が言う。
「......何、一人で語っちゃってんの? マジでキモイんだけど」
するともう一人が、
「調子に乗んなカス!」
といい、腕を大きく振りかぶり、崇の頬を思いっきり殴り飛 ばした。
崇は、その拳を避けなかった。口からはタラっと血が出る。
しかし崇の足は後ろに一歩も下がらない。 そして流れた顔を素早く戻すと、鋭い目で輩を睨みつける。
「リンチだ...リンチにするぞ」
「おう...そうだ。そいつの腕を押さえつけろ!」
一人一人の緊張の糸が切れ、皆が一斉に動き出そうとした時。
それは同時に、崇が自分の今後の成れの果てを悟った時だった。___悔いはない。 大声が一つ、場を支配する。
「やめろ!」
皆の動きがピタッと止まる。 誰もが皆、その声の主、倉持優太の方を見つめた。
一瞬で、音が無くなる。
静寂の中、皆の息を飲む音がする。 優太は眉間に皺を寄せて、言葉を発した。
「崇__お前は何がしたい? ここで俺らにボコられても、お前には何も得はないだろ。もういい から、どっか行け」
その言葉は、崇の胸スッと落ち着かせた。
『あぁ......よかった』
と崇は思う。 速すぎない胸の鼓動が、トクン、トクンと耳に響き、些かの心地よさを感じた。
これが最後のチャンスだろう。自分の身体が無事で済む、ラストチャンス。
崇はカバンを見て、笑った。 そして誰にも聞こえない小さな声で、ボソっと呟く。
『そして...己の信念を貫けるラストチャンス......だよな...ナルト?』
崇は曲がった背筋を伸ばし、優太に言った。
「世の中にはな、二種類の人間がいるんだ。この状況を見て、動く奴と逃げる奴」
崇と優太の視線はピッタリと合い、二人は目を背ける事もまばたきをすることもない。 崇は静かに言葉を続けた。
「残念だったな。俺は動く奴なんだよ。これで答えになったか?」
優太は言葉を返す。
「そうか。じゃあ悪いが、俺にはお前を助ける事はできない。残念だが、死んでくれ」
その言葉を合図に、一斉に輩が崇を囲み、背後から拘束する。
途端に、崇は慌てて言葉を上げた。
「待て待て待て待て」
「ハア? 待てだ? 今更もうどうにもなんねぇぞ!!」
「誰がお前ら全員相手にするって言ったよ!? タイマンで決着つけようぜ?」
「はあ!? タイマンだ!?」
首を回し、全員の顔を順々に見ながら、崇は堂々と言う。
「誰でもいい。この中で一番強い奴、そいつと俺のタイマンだ。俺が勝ったら、お前らは俺のいう 事を聞いてもらう。お前らが勝ったら煮るなり焼くなり好きにしろ」
輩は即座に言い返す。
「は? ふざけんな!? 何お前がルール決めてんだよ? お前状況分かってんのか?」
崇はニヤけながら首を小刻みに上下させた。
「そうかそうか、お前らは所詮俺ごときに勝つ自信さえねぇんだな。だから家畜みたいに群れで行 動してんのか。...納得だ!」
その言葉に、罵声が帰ってくるのは分かり切っていた。
「誰がテメェごとき、なめんじゃねぇ!」 「殺す!!」 「ぶっ殺してやる!!」
声変わりの終わったばかりの低い罵声の嵐の中。 それとは相反する乾いた声が響き渡った。
「ふふ、アッハハハ、ハハハ、ハッハッハ」
戦場とも言える殺気だった空間のなか、場違いな音が空間を支配する。
大笑いをしたのは倉持優太。
崇が初めてみる、優太の笑顔だった。
「...はあ~、面白れぇ奴...ップ...ふふ、ダメだ......お前、何なんだよ? 普通、ビビるだろ?」
そう言うと、また笑いを堪えきれず吹き出しはじめる。
崇を含めたその場の誰もが、その優太の姿 を唖然とした表情で見ていた。
優太は落ち着きを取り戻すと、晴れやかな笑顔で言った。
「いいよ、やろうぜタイマン!」
また初めてみる表情。この男は、何度仮面を外せば本当の姿にたどり着くのだろうか。
一斉に、優太に反発するように「優ちゃん」という言葉で場は埋め尽くされるが、優太は「うるせぇな」と小さく言うと、今度は他の人間の声をかき消す程大きな言葉を発した。
「俺が決めたことだ! 文句ある奴は前に出ろ!」
その一言で、いともたやすく場は再び静まる。 このグループの、絶対的リーダーは、倉持優太だった。
崇は不思議な気持ちに包まれていた。 『唯の陰キャ。黒縁眼鏡。友達がいない、暗い奴の一人』 さっきまでは、そんな印象だったはずだ。
それが今、そんな一面は消え失せ、180°裏返った倉持優太の姿が目の前にある。
「お前ら、今すぐこの中で一番強い奴を指させ」
優太のその言葉に、一同は一斉に腕を上げ、優太の事を指さした。
「タイマンなんて久しぶりだ」
そう悪戯に笑う優太の表情に、崇の背中は指で下から上へなぞられるようにブルっと震えあがっ た。
『この感じ。...前、あった。いつだ? あっ...あぁ、そうだ。幼稚園で、健之介と戦った時だ。あの時もこんな寒気を感じた。...優太、多分コイツ...相当強い』
崇のそんな甘い予想は、霧吹きで広がった水の粒子の様に直ぐに消え去った。
〖相当強い〗____そんな次元ではなかった。
優太の最初の右ストレートは早すぎて、崇には見えなかった。あっけなく崇の顔面を直撃し、吹っ 飛ばされる崇。
両の鼻の穴からは血が滴り落ちる。
崇は唖然とした。
『......な、、なんだコイツ!? 化け物?? この体格で、、嘘だろ?』
優太の早すぎる攻撃に、崇はひたすら殴られた。
サンドバック状態だ。
殴られ、蹴られ、そしてまた殴られ続けた。
崇の顔は一瞬にして膨れ上がれ、右目は赤リンゴの様に腫れあがり、すぐに殆ど何も見えなく なっていく。
3分ほどで意識は朦朧とし始めた。 倉持優太の強さは圧倒的だった。
軽い運動をしてるように、両方の腕をブンブンと振り回し、崇はそれに呼応して「う ゙」と鈍い音を腹 から鳴らしていた。
一方的な暴力が続き、そして5分ほど経った頃。
優太は攻撃していた手をピタリと止める。
彼は、穏やかな声で言った。
「なぁ崇......もう、終わりにしようぜ」
床に這いつくばった崇は、震えながら立ち上り、喉から擦れた声を出す。
「...まだ......まだ」
優太はため息をついて言った。
「これ以上やったら、本当にお前を殺しちまう」
崇は言う。
「...はぁはぁ......殺せるもんなら......殺してみろ」
優太は、真顔で少し間をあけた後に返答した。
「次の一発、全力でいれる。多分お前は気絶する。これがラストチャンスだ」
ハァハァハァハァ......ンハァ! ハァハァハァハァハァ 場に響く、唯一人の音。
10秒ほど崇の呼吸音だけが場に流れる。 崇は徐に笑った。
「優太...!
次の一発で、お前を失神させる。泣いて謝るなら許してやるよ」
『な......な.........な ゙!!!!?????』
そこにいた誰もが、崇の往生際の悪さに度肝を抜かれた。
負け惜しみもここまで行くと、人々の心を動かしていた。
『こんなボロボロで絶望的な状態で、なんで笑いながらそんなことが言えるんだ...コイツアホだ!!!!』
優太は表情に揺らぎを一切見せずに、佇んでいる。 崇の足が動いた。
さっきの一言。
あれを本気だと考えているのは、どうやら本人の崇だけのようだった。 崇は、本気で優太を失神させる気でいた。
それには根拠がある。 何回も、何十回も殴られる中で、崇は優太の決定的な弱点を見出しいていた。 優太は身体能力、目の良さ、そして勘の良さ、その全てに置いて突出しており、どの要素をとって も崇の能力の上をいっていた。
殴られて分かったが、コイツがトップをはっているのは、頷けるど ころか至極当然だ。がたいの良さだけで太刀打ち出来る相手じゃない。
ただ、完璧に見える人間の中にもほころびはある。 優太は相手の攻撃をかわした後に、目線を切る癖があった。かわして相手を後ろにいなす。 その直後に、攻撃が返ってくるとは思っていないんだ。
唯一にして最大の欠点。
崇はそれに賭けた。
崇の足は勢いよく進んでいき、右足を強く踏み込むと膝を曲げ、十分にエネルギーが溜まった所 で優太の顔面に向け浮遊した。
引いていた左足の膝をタイミングを合わせ思い切り前に蹴り上げる。 この膝蹴りが避けられるのは分かっていた。 重要なのは、これで終わりと見せかける事。優太が避けるまでは決して、膝蹴り以上のアクション は起こさない。
崇は心で祈った。
『右に避けろ! 右に避けろ!! 右に避けろ!!!』
ここで左にいなされたら、全てが終わる。 優太の首が動き始める。 どっちだ...どっちだ...! それは............右だった。
『よっっし!!』
崇の顔に凄まじい生気が生まれたとき、既に優太の位置からではその表情は確認できなかった。
この時顔を見られていたら、崇の意図に瞬時に優太は気づいたかもしれない。
優太はつまらなそうに首を右に捻り避ける。当然、勢いのまま崇が後方に流れると思い込んでい た。
そして崇は優太が避けたその瞬間を見計らって、腰を全力で右に回した。
引きちぎれてもいい覚悟で、全身全霊を持って腰を回す。
そして、宙に浮く崇の目に、目標とする物体が見え始める。
その、無防備に首から生えている顔面が回した腰から追従するように、右足が勢いよく優太の頭に接近していた。
気配を感じた優太が顔を左に向けた時には、既に崇の靴底との距離は3センチメートルに迫って いた。
2センチ............1センチ...............2ミリ...... 靴底が優太の鼻先に触れる。
そして崇が生み出したエネルギーは、1ジュールも余すことなく、優太の顔面に吸い込まれていった。
優太の顔面は、背泳ぎ選手のスタートの様に後ろに反っていき、そしてまるで大谷翔平が放つ ホームランの様に、体は奇麗な弧を描く。
吹っ飛んでいく彼を見ながら、崇はこの後の事を考えていた。
優太の強さなら、まだ起き上がる可能性がある。 倒れ込んだ所を、もう一度蹴り飛ばさないと。
そんな思考をしながら、崇は左肩から、ドスンと地面に衝突した。 崇の意識は、暗い闇へと吸い込まれていく。
『起き上がらないと......早く......はやく............はや......く...』
あれ......体に力が入らない。
崇の意思に反して、彼に起き上がる力は残されていなかった。
全てのエネルギーを、文字通り置 いてきたのだ。
そして崇の心配をよそに、優太にも立ち上がる力は残されていなかった。
無意識下での大きな衝撃に、優太の脳も、意識を現実に留める事ができなかったのだ。
岡田崇と倉持雄太、二人は共に眠りにつく。
10月の下旬。
ちょうど夏の残暑もすっかり消え、秋らしい気持ちの良い空気が日本中を覆い始めたそんな季節。
先に目を覚ました優太は、仲間を帰らせた後に、意識のない崇のことを背負って、近くの公園に 来ていた。
街に唯一ある小さな川沿いの、小さな公園だ。
時刻は4時30分。 ずっと寝ている崇の横で、優太はぼうっと空を眺めている。 少しづつ空の色はオレンジ色に染まっていった。
「あ〜、日が暮れるのも早くなったな」
一人でそんな事を呟いていると、横から微かに声が聞こえてくる。
「ん、、ん」
優太は首を回し崇の事を見ると、少し口角を上げて言った。
「起きたか?」
崇はゆっくりと目をあける。
現実に戻ってきたばかりの朦朧とした頭で、崇は声が聞こえる方に首を向けた。
そこには、ぼさぼさの髪を下ろし眼鏡をかけた、学校どおりの優太の姿があった。
崇は大きく息を吸って吐くと、空を見つめ言う。
「今何時?」
「4時半...くらいだな」
「はぁ〜.........一時間くらい寝てたって事か」
優太は無言のまま、笑顔で頷く。
二人とも、視線は空をゆっくり流れるオレンジ色の雲に向いていた。
そしてそのまま、無言の状態が続いた。
辺りには人通りは少なく、ゆっくりとした時間が流れている。
地べたに座っている状態の優太の横で、しばらく寝た状態のままだった崇だったが、一分ほどたつと、ゆっくりと腰を上げた。
そして唾を呑み込み、ちょうど崇が声を出そうとした瞬間だった。
「俺の負けだ」
そう、優太が先に言葉を発した。 じんわりと、崇の瞳孔が広がっていき、喉から大きな声が出る。
「え!?」
崇は驚いた。
正に今、自分が言おうとしていた言葉が優太から聞こえてきたことに。
「いや、え? なんで?」
困惑している崇に、優太は至極当然の様に言った。
「お前に最後殴られてぶっ倒れたんだから、そりゃあ俺の負けだろ」
「いや、でも......俺だって最後意識失ったし」
崇は納得のいかない顔で言ったが、対照的に優太は、自分の負けを確信しているかの様な清々 しい表情を崩さなかった。
そして、名前の様に優しく、そして穏やかな笑顔を作ると言う。
「じゃあ、おあいこだな」
ひまわりの様に気持ちよく咲いた笑顔。 崇は優太の表情に思わず見とれて頭を掻いた。
優太は、「は~あぁ」といい正面を向きなおすと、「痛かったぜ」と清々しく言う。
正面を向く彼の横顔を、10秒ほど崇は見ていた。
倉持優太。
最初の印象は陰キャ。そして急にヤンキーグループのリーダー。
で、今は爽やかな青少年。
崇にとって、優太という存在は、カメレオンの様に変化していた。
ぼうっと優太を眺めていると、彼はその視線を察知したのか、顔をクルっと回して崇の方を見た。 見つめられた崇は唾を飲み込む。
優太は、目線を少しだけ下に外すと言った。
「とりあえずさ...もう、カツアゲとかはしないよ」
放たれたその言葉を崇の脳みそが認識した時、彼の心臓が暖かくなった。
「そ、、っか」
そう、笑みを浮かべ短く二文字だけ返答する。
優太はニコッと笑うと、腰を宙に上げた。
「さってと、帰るかー!
あーあーあー、崇のその顔、ひっでぇな。大丈夫か?」
その言葉に崇は瞬時に反応する。
「お前がやったんだろうが!!」
お互いにニヤけると、お互いに笑いあう。 優太は、「そうだったなぁ~」と天を見上げた。
崇は、優太の笑顔を見ながら心で呟く。 『不思議な奴だ』
今まで出会った事がないタイプだし、まるで彼の事を知らないのだが、崇は何故か、優太から信 頼と友情の微かな香りを感じていた。
優太はそのまま「じゃーな」といい、帰路に向かう。 それを見ながら、崇は思わず声をかけるのを我慢できなかった。
「おい」
優太は「ん?」と言い振り返る。
「どーした?」
崇に迷いはなかった。 大きく、ハッキリした声で崇は言う。
「おあいこだろ? おれは......俺は、、何すればいい?」
遠くの方で、優太の瞼が上がっていき、そして笑うのが崇にはわかった。
実際には20m程距離があるので見えはしなかったが、崇にはわかった。 優太は二人の間に広がっている空間に、言葉を響かせる様に言う。
「俺達の仲間になってくれ」
崇は即答した。
「わかった」
「俺はなにすればいい?」なんて、なんであの時言ったんだろ。
離婚で傷ついた心を、何かに依存させたかったのかもしれない。
優太は、自分を夢中にさせてくれる存在だと、あの時思ったのかもしれない。
崇は後々そう思った。
少なくとも、あの時確かに、目の前のこのカメレオンの事を、もう少しだけ知っていきたいと思って いたんだ。
崇は、優太にいつの間にか惹かれていた。
家に帰ると、親がこの世の終わりの様な顔で心配をしてくれた。
ただ崇が見せたいつ振りかも分からない素直な笑顔に、家族の皆は根拠のない安心感をおぼ え、細かくは追求しなかった。
そして次の日。
学校にいた倉持優太は、いつもの倉持優太だった。
眼鏡をかけて、髪はボサボサで、誰も話しかけてくる人間はいない。
崇は、そんな隣の席の彼の様子をうかがっていたが、まるで昨日の出来事が夢だったかのよう に、彼はいつも通りだった。
気を取られているうちに1日の授業は終わり、いつものように優太は教室を出ていく。
何だったんだあれは...? 崇は自分の頬をつねった。
「いたい」
どうやらこれは夢ではないらしい。じゃあ昨日のがやっぱり夢?そんなことを呆然と考えながら歩みを進めていた。
教室を出て、階段を降りる。 玄関で靴を履き替え、ぼうっと歩いていると、突然崇の耳に音が入り込む。
「おい、どこいくんだよ?」
昇降口を出ていく崇に、優太はそう下駄箱に寄りかかりながら言った。
崇は振り返り、表情を変えずに言う。
「やっぱり夢じゃなかったか」
「は?何言ってんだ?」
崇は「別に」と顔を正面に戻し、そのまま足を進ませた。
その顔には、笑みが浮かんでいた。 後ろから、優太の「ちょっと待てよ」という声が聞こえ、崇は「やーだよ」と答えた。
崇と優太の日常が、この日から始まった。
優太が率いているチーム名は「Great Justice」。通称グレジャス。
大人になって思い出してみれば、中二としか言えないダサいネーミングセンスだったが、当時の崇はそれを聞いたとき、少しワクワクしてしまった。
中学生が知ってる簡単な英語で親しみやすく、かつ自分がまるでヒーローになった気分に浸る事 ができた。 離婚で傷心していた崇にとって、正義という名目の為に行動することは、心地よかったのだ。
グレジャスは優太が作ったチームだ。 もっとも、優太は別にチームを作る意図は無かったのだが、悪い奴を懲らしめるうちに、その中の何人かが優太のカリスマ性に惹かれて後をついていくようになり、メンバーが増えたのを切っ掛 けに出来上がったのだった。
優太と相打ちになった崇は、優太からチームで二番目のポジションを与えられて、3人からなる1つのグループを率いる事になった。
急に現れた崇の事を、内心厭わしく思う人間も当然いたが、グレジャスの誰もがあの決闘を見て いたこともあって、皆が崇の事を認めるのに時間はかからなかった。
崇は辛い事を忘れるかの様に、グレジャスの活動に邁進した。 主に、情報収拾係が集めるイジメの情報に基づき、その主犯格を懲らしめるのが活動内容だった。
それまでのグレジャスのやり方は、兎に角ボコボコにする、というのがやり方だった。 しかし崇はそのやり方を変えた。 相手の事を出来るだけ調べて、その人間の本質を探り、更生の余地を見つける。
それに基づいて、時には話し合ったり、時には喧嘩以外の勝負をしたりと解決方法はバラエティに富んでいた。
崇の仲間の2人は、そのやり方に惹かれ、崇の事を慕っていった。
崇がすんなり馴染めた理由はいくつかあったが、一番大きいのは、グレジャスの中で一番気性の 荒い2人を、優太が引き取っていた部分が大きい。
桐原翔太と柏木孝也。
もしその二人が崇の下についたとしたら、崇のやり方に黙って従ってはいなかっただろう。
だから優太たちの方は、カツアゲなどは辞めたが、暴力で更生させるという基本スタンスは変えていなかった。
グレジャスは基本的にはグループ毎で活動し、週に一度、全体で集まって総会が行われた。 その時は大体、国道沿いにあるセブンイレブンの前で、お菓子屋やホットスナックを食べながらた むろするというのが恒例だった。
『疲れた~、あーー、たかぴぃーだ。お疲れさーん』
『クローズの映画製作決まったらしぜ! 崇今度見に行くべ!』
『よっ、崇! ま~たお前はピザまんかよ~』
長く連れ添っていく中で、段々と崇はグレジャスの皆の事を知っていく。
チームの人間は皆が皆、社会的弱者で出来あがっていた。
家庭が貧困だったり、崇の様に親が離婚していたり、身内に犯罪者がいたり。
そんな皆が、優太にボロ雑巾され、そしてそのカリスマ性に惹かれ、一つに纏まったのだった。
誰もが苦しみの中で、それでも弱者の為に正義をかざすことに、信念を持っていた。
世間的には『落ちこぼれ』とカテゴライズされるだろうが、崇にとっては大切な仲間だった。 笑いあって、喧嘩し合って、第一印象は最悪だったけど、そんなの吹っ飛ばす位、皆芯が通っ た男たちだってことがわかった。
いつだったか。 崇は一度、何で自分に声をかけようと思ったのか、あらためて優太に聞いた事があったが、その 時彼は言っていた。
『あの時の崇の絶望的な顔が、何か昔の俺見たいでさ。......思わずな』
そう、困りながら笑っていた。 誰もが家庭事情を共有し、その痛みを分け合って群れていたグレジャスの中で、優太だけは素性があまり分からなかった。
というよりも、いつもそう言った話になると言葉を濁し、
「うちは別に普通の平凡な家庭だよ」
と笑ってごまかした。
一つだけ言っていたのは、優太は昔イジメられていたという事だった。 小学校の低学年のうちは、本当に暗い奴で、イジメの標的にされていたらしい。 靴を隠され、お金を取られ、水をかけられた。 今では想像できなかったが、昔の優太は本当に何も出来ない、弱い人間だったと。そう、自分で言った。
「それをさ、兄貴が助けてくれたんだ。だから、兄貴は俺のヒーローなんだ」
優太には兄がいるらしい。 イジメられていた自分を助けてくれた兄に憧れたのが、俺の原点さと、そう言った。
それを聞いて、崇は何となく納得する。 学校での暗い優太も、グレジャスのリーダーの優太も、こうして馬鹿みたいに笑いあえる優太も、どれも本当の倉持優太なんだと。
崇はゆっくりと着実に、優太の事を理解していった。 そして同時に、チームの皆も誰もが崇と同じような苦しみを抱いているという環境が心地よく、崇 の居場所は本当にここになっていた。
一方、それに反比例するように、健之介とは連絡を取らなくなっていった。
転校して家が遠くなったのもあったのだが、それ以上に心の距離が開いていくのを、崇は明瞭に 感じていた。
話にきく健之介は、崇とは相反するようにキラキラした世界で毎日を送っていた。 通学先は、若者の聖地『渋谷』で、放課後や休日は女の子を連れてセンター街で遊んでいるらしい。
彼女も当然出来ていて、サッカー部でもレギュラー。 勉強もスポーツも遊びも、全てで充実した日々を過ごしている健之介の話を聞き、崇の心はいつの間にか彼から離れていった。
『負けたくない』という気持ちが、段々と、そして着実に、『見たくない』に変わっていった。
健之介からは定期的に連絡は来ていたが、返事を返さないこともあった。 彼に対し複雑な気持ちを抱え夜があり、そして翌日、グレジャスの中に戻った時、崇の心のHPが回復する。
いつの間にか崇の居場所は、グレジャス以外には考えられなくなっていた。
そんな毎日の中で、岡田家の家庭環境も、次第に落ち着いていく。 一番励みになったのは、母親のポジティブさだった。 離婚が決まり、引っ越しをした後の母は、今までに増してアクティブでポジティブな様子を見せて いた。
旅行を企画したり、家のリフォームを計画したりして、前向きに生活を楽しんでいた。
今考えると、子供に心配をかけまいと、気を揉んでくれていたのかもしれない。
時間と共に離婚当時の鬱屈とした雰囲気は消えていった。
新たな生活で、自分の安定した居場所を見つけた事で、崇の心も少しずつ落ち着いていった。
一度壊れた心を立て直し、やっと心の苦しみから解放されてきた。
そんな時だった。事件が起きたのは。
その日、崇は学校が終わると、いつもの様にグループの二人と一緒に、公園のベンチで打ち合 わせをしていた。
イジメてる奴がどんな奴か。小学時代はどうだったか。家庭環境は真剣に、そして綿密な計画を立てている時。
遠くから、パトカーのサイレン音が聞こえてきた。 崇たち三人はそれを気にも止めていなかったが、サイレンは段々と近づいてきて、そして遂には、公園の前まできて止まる。
流石に崇たちは会話を止め、パトカーの方を見た。 車から警官が二人降りてくると、真っすぐと崇たちの方に足を進め、そして目の前で止まった。
「岡田崇くんだね」
50歳くらいの渋い警察官が、そう厳しい口調で言った。
崇の心臓が、嫌な音を鳴らし始める。
「...はい...そうですけど」
消え去りそうな声でそう言う崇に、警官は
「ちょっと話を聞きたいから車に乗りなさい」
といい、崇の腕を掴んだ。崇はなされるがまま腰を上げる。
「ちょ、ちょっと待ってください」
「崇が何したんですか!?」
崇の仲間の二人が、そう声を上げてくれたが、崇はそれを制すように
「大丈夫だから、打ち合わせ続けててくれ」と笑った。
そのまま崇は、警察署に連れていかれた。
取調室に着き、自らにかけられている疑惑を聞いた。
「君たちの仲間の桐原翔太が、傷害の容疑で捕まった。そして彼は、岡田君...。君に指示され て、やったと言っている。どうだ、本当か?」
崇の頭が真っ白になる。
『翔太が、、俺に言われて...?』
勿論、崇には全く身に覚えのないことだ。 つまり崇は、仲間の一人、桐原翔太に裏切られた事になるのだが、彼の脳みそはその事実を受 けれようとはしなかった。
『何かの冗談だよな?』
桐原は、優太のグループのメンバーだ。気性は荒いが、長い時間付き合っているうちに、確かに仲間だと崇は思っていた。
家は崇と同じ母子家庭で、今まで沢山、お互いの話をして友情を深めてきたはずだった。
「どうなんだ、岡田崇」
崇は、ショックのあまり肯定も否定も出来ずに、口を噤んでいた。
そして長時間口を開かない崇に対して、警官は「岡田!!」という怒号と共に、机を勢いよく拳で 打ち鳴らした。
呆然とする崇。
すると、ドアが開く音と共に、「こちらです」という声が後ろから聞こえ、崇は後ろを振り返った。 そこには、崇の母がいた。
「母さん...」
そう、崇の口から言葉が零れる。 お座りくださいという警官の言葉と共に、母親は崇の隣に座った。 母親は事情はもう聞いているようだった。
「崇君、先ほどから何も喋らなくて困っているんですよ」
そう警官が言うと、母親はゆっくりと崇の方を向いた。 そしてその気配を感じ、崇もゆっくりと顔を右に向ける。
「崇、どう? 桐原君の言ってることは、本当?」
その母親の言葉を聞いた瞬間。緊張の糸が切れた。
眼球のずっと奥の方が瞬間的にあったかくなり、ジンジンと崇の目を刺激する。 直ぐに、涙がスーっと崇の頬を滑り落ちていった。
「母さん、俺、やってないよ......やってない」
崇にとって、仲間に裏切られることは、泣くほど苦しいことだった。 母親はそれを聞くと、ゆっくり頷く。 そして、固かった表情を、天使の笑顔の様にニコッと変化させて言った。
「わかったわ」
警官はそれを見てため息をつく。
母親は顔を警官に向け、言った。
「だそうです。崇は、何もやっていません」
警官は再び大きなため息をつくと、頭を掻きながら言った。
「困ったな。その言葉を、直ぐに信用しろと言われましても、難しいんですよ。お宅の崇君は聞くと ころによると素行が悪い。何やら、他校の生徒を殴って回っているみたいじゃないですか」
「ち、違う! そんな事はしてない!!」
見当違いの警官の言葉に、崇は思わずそう声を上げた。
「はいはい、わかったわかった。少し静かにしてくれないか崇君。...はぁ、父親がいないと躾もろく になってないようですね、お母さん」
それを聞いたとき。
この警官をぶっ飛ばしてやりたいと、崇は思った。 押し付けられた爪で血が出そうな程、崇は拳を、ぎゅぅーっと、強く握る。 脳みその温度は既に沸点に到達していたが、ここで飛び出したら、この警官の思うつぼだ。 崇は奥歯をギュっと噛み締め、下を向いた。
「すみません、私の教育が至らないばっかりに」
上から、そう声が崇の耳に入った。
崇の目がバッと見開く。 眉間がぴくぴく動き始め、そして顔をブルドッグの様にクシャクシャに歪めた。
『違う...母さん...違う』
絶望した。
瞳から、水がポタポタと落ちて、ズボンに染みる。 悔しさと怒りと悲しさで、崇の胸は張り裂けそうになった。
グレジャスで活動してたのは、こんな事になる為じゃい。
俺は、弱いものの味方になりたくて、ヒーローになりたくてやってたんだ。 暴力もふるってない。 でも、どんなに俺が声を上げようと、この世で信じてくれる人がいないことが今わかった。
崇は声を押し殺して、震えながらその場で耐えていた。 警官はこの様子を見て、満足そうに
「わかれば」
と声を出した。 その時だった。
警官の言葉を、母親がかき消した。
「でも」
その場の皆が驚くような大きく、凛とした声。 その声に、警官は言葉を止め、ワッと目を見開く。 母親は、横にいる崇の事を見てニコッと笑うと、今度は顔を正面に戻し、警官に言った。
「もし正しい教育というのが、あなたの様な人間になる事でしたら、私は一生間違った教育をし た、間違った母親で構いません」
警官のコメカミが、ぴくぴくっと痙攣する。
「どういう意味ですか?」
「言葉の通りです。崇は、私の自慢の息子です。馬鹿にしないでください」
そう言い切る母親の横顔を、崇はじっと見ていた。
不思議だ。
心を雁字搦めにしていた鎖は一気に解け、先程まで感じていた息苦しさを全く感じない。
胸には充足感だけが溢れていて、今まで生きてきた中で、一番の幸福が崇を包んでいた。
先程の、黒い色をした悔し涙が、いつの間にか七色のうれし涙に変わり、スッと崇の頬を滑り落ち ていく。 崇と母親と警官は、共に異なった三者三様の感情を胸に抱え、取り調べ室は異様な空気感が 漂っていた。
そんな時。
室内に、「ガチャリ」とドアが開く音が響く。
一同が向いた先には、別の警官が一人、気まずそうな表情で顔を出した。
「警部補...ちょっと」
そう言うと、崇たちを尋問していた警官は室外へと出ていった。
崇と母親は、二人部屋に取り残される。 「カチ、カチ」と時計の秒針の動く音だけが響いている。
10秒ほど経って、シンと静まった部屋の中、徐に崇が声を出した。
「...母さん、ごめん」
母親は、狐につままれたような表情をして言った。
「何で?母さんの言ってこと、間違ってた? 崇は悪い子なの?」
「...いや、そうじゃないけど」
母親は笑って言った。
「じゃあ、堂々としなさい!」
その母親を見て、崇は思う。
母さんの子供に生まれて、よかった そしてようやく、崇にも笑みが生まれた。
「うん!」
結局この後、崇の濡れ衣は晴らされた。 桐原翔太が供述を変えたようだ。
『命令したのは岡田崇ではなくて、倉持優太だと』
暴行。カツアゲ。 その警察から詳しく聞いた話で、優太と桐原は、二人でそれを行ったという。 口封じに色々手を回し、その内容は下劣な人間のやることそのものだった。
崇はショックだった。
自分の仲間が、最低な人間だと分かったことに。 嘘をついていた事に。
そして、それを信じようとしなかった。 何か、本当は言えない、何かがあるはずだと。 優太に問いただす。 そう決意し、崇はその日眠りについた。
翌日。
この一件は直ぐに校内に知れ渡り、グレジャスの一同もその後直ぐに集まることは出来ない状態 になっていた。
優太と桐原は一ヶ月の停学をくらい、学校には来ていない。
崇は優太にメールや電話をいれたが、彼がそれに答えることはなかった。
時間が経ち、事が幾分鎮静化したあとで、グレジャスの他のメンバーとは集まり話をしたが、兎に 角、優太と桐原が学校に出てくるまでは、何もしようがないというのが現実だった。
崇にもできる事は限られていて、一度は優太の家に行こうかと思ったが、それはやっぱりやめ た。
少しだけ、優太にも時間が必要なんだろう。崇はそう考えた。
そして、今までの日々が嘘のように静かなが続き、三週間あまり経った頃。 下校のチャイムが流れ、いつも通り真っすぐ家に帰ろうとした時だった。
「崇」
正門を通過した辺りで、そう名前を呼ばれる。 下を向いてた顔を、崇はあげる。
目に入った光景に、崇の瞼はワッとあがった。 丁度10メートル程先に、リーダーの姿あった。
「優太!!」
優太は、少し寂しそうな笑みを浮かべ、右手を上げていた。 崇は手にギュッと力を入れる。
空は無神経なほど晴れ渡っていて、太陽は二人を優しく照らしていた。
二人は、いつもの公園へと足を運んだ。
何回も、何回も集まった慣れ親しんだ公園。
ただその日は、いつもと違い、何年ぶりかに来たかのような感覚を崇はおぼえた。
3週間前に来たばかりなのに。 平日だったが、何人かの親子が公園でサッカーやキャッチボールをしていて、長閑な午後の空気 が漂っている。
崇と優太は、ベンチに座ってから5分余り言葉を交わさなかった。
あの一件に関して、事実関係も何も分からずにいた崇は、とりあえず優太からの言葉を待った。
そしてその待ちわびた一言目は、崇の全く想像していなかった言葉だった。
「三浦健之介...君?に会ったよ」
驚いた崇は、すぐさま首を優太の方へ振った。
「は?」
優太も崇の方へ顔を向ける。
「崇を洗脳してるやつがどんな奴か見に来たって」
そう言うと、優太は鼻で息を一つ捨て笑った。 崇の頭の中では、その情報は全く消化されずに固形物として取り残されている。
「『どんなに凄い奴かと思ったけど、俺の方が上だな』って、言われたよ
...ッフ... あいつだろ?崇が俺とやった時に言ってた、サスケが好きなやつって」
崇は唖然とし、力なくゆっくりと頷く。そして言った。
「それだけ?」
「あぁ、それ言って帰ってったよ...まぁでも、本当に言いたい事は分かった」
崇の頭の中では情報が散乱し、収拾がつかないまま時間だけが過ぎていく。
無言の崇に、優太は言葉を続けた。
「崇...お前さ、俺の兄貴に似てるんだ」
「...え? ...前...言ってた、イジメから助けてくれた?」
「そう。俺のヒーロー。...もう、死んじまったけどな」
さらっと放たれたその言葉は、あまりに予想だにしない言葉で、崇は言葉失う。
「悪性リンパ腫でね。あっという間だったよ」
そう言った優太は、その後、口を閉ざした崇に、思い出を振り返る様に兄の話を語っていった。
元々優太は、内気で、根暗だった事もあり、小さい頃はイジメられては兄に助けてもらう毎日を過 ごしていた。 兄は優太とは対照的に明るく、いつも
『優太、心配すんな。ヒーローがついてるからな』
と言って 笑っていた。
優太はそんな兄が大好きで、いつの間にか兄の背中を追って、空手を習い始める。
運動センスがあった優太はめきめきと頭角を現していき、そんな強い優太をイジメる人間は、い つの間にかいなくなっていた。
『いつか、兄ちゃんからヒーローの座を奪うから!』
『バーカ、100年早えんだよ!』
優太の引っ込み思案も段々と解消されていった、そんな時だった。 兄の病気が見つかったのは。
そこからは一瞬だった。
兄の最後の言葉を、優太は一生忘れる事はない。 病床の上。スカスカの体で、優しく優太の頭に手を置いて、彼は言った。
「ヒーローになれ」
そう笑って、兄は死んだ。
「最初に会った時の崇の目は、あの時の俺だった」
優太はそう言った。崇は真剣に彼の話を聞いている。
「生きる気力のない、絶望に支配された奴の目...。だから、声かけたんだ」
「そっか」
三秒ほどあけて、優太はふっと鼻から息を吐く。
「そしたらさ、いきなり俺らの前に現れたと思ったら、ヒーローになれとか言って」
優太は言った。
「...あの時、俺...本当に兄貴が生き返ったのかと思ったよ」
崇の方に顔を回すと、優太はクシャっと笑った。 続けて、優太は天を見る。
「本当はさ、最初は純粋に弱いものを助けたかっただけなんだ。
昔の俺みたいなやつを、兄ちゃんみたいに。でも、メンバーが増えていって、グループが大きくなるにつれ、制御できなくなって いった。
特に翔太なんかは、暴れ馬だ。あいつを納得させるには、妥協が必要だったんだ」
崇は言う。
「それで、カツアゲを続けてたのか?」
優太は消えそうに笑う。
「すまん」
それを聞いてしばらく、崇は黙り込んだ。
そして崇は、徐に口を開く。
「俺が、変える。グレジャスを変える。お前はトップ失格だ優太。俺とリーダーをかわれ」
優太は、キョトンと目を見開いた。
心底驚いている様子だった。 しばらく唖然としていた彼だったが、次第に口角をピクピクと動かし始めると、途端にバっと笑った。
度々優太は、崇の言った事に対してこうやって大笑いする時があった。
それはいずれも崇の予期しないタイミングで、優太が笑ってる最中、崇は困惑をすることが多い。 崇は今回も、優太が笑い終えるのを待った。
ようやく嵐が収まり、優太は言った。
「やっぱ崇は崇だな」
崇は、困惑のまま笑みを浮かべ、
「は?」
と相槌を打つ。
「いつでも真っすぐ俺にぶつかってきやがる。ほんと、お前はナルトみたいに真っすぐな奴だ」
その言葉は、何故か崇の心をジーンと揺り動かした。
ギュッと歯を食いしばった後、崇が言葉を返そうとした時。 優太が思わぬ言葉を優太は口にする。
「お前と会えて、良かったよ。お別れだ」
その言葉を認識するまで、5秒の時間が必要だった。 そして理解したとき、崇の頭は真っ白になる。
「...は?」
「お前は、グレジャスを辞めてもらう。これは皆の総意だ」
「...は?なんで?」
「昨日、お前抜かした全員で集まった。皆が崇にやめてほしいと思ってる。崇、わかったろ。空 気読んでくれ」
崇は顔を歪めて言い返す。
「...お前が......お前が仲間になれって言ったんだろ!!?」
「そう、だな...失敗だった。俺の事はいくらでも恨んでくれていい」
崇は拳をギュッと握り締めた。
「俺だけかよ...仲間だと思ってたのは...」
優太は、顔を斜め下へと向け、顔を隠した。 そして5秒ほど経つと、ゆっくりと顔を上げて言う。
「崇はさ、俺ら底辺の人間とは、生きる世界が違うんだよ。お前は元の世界へ戻れよ」
崇は思い切り奥歯を噛み締め、ふり絞る様に「...なんだよそれ」と言うと、今度は声を荒げて再び 同じ言葉を叫んだ。
「なんだよそれ!! 生きてる世界が違う!? 同じだろ! こうやって同じ場所に立ってるじゃ ねーか!」
「いい加減にしてくれ! リーダーの俺が決めた事だ!!」
「納得いくわけねぇ!!」
公園にいる人々は、2人のその言い合いに思わず顔を向け、いつの間にか皆の注目が集まって いた。
優太は、目を細める。 久々に崇に見せる、冷たい表情だった。腰に手を当てると、優太は言った。
「わかった。じゃあ、最後は俺たちらしく決着をつけよう」
崇は首をかしげ、優太の返答を促す。 優太は全く表情を変えず、まるで機械の様に口だけを動かして言った。
「タイマンだ」
崇は一瞬の間をあけた後、目を見開いた。
「のぞむところだ」
長閑な公園。 そこが、二人の嗚咽や怒号により、劣悪な戦場と化す事はなかった。
勝負は一瞬だった。
優太の右フックは、正確に崇の顎先を捉え、崇は膝から崩れ落ちた。 彼の意識は闇へと消え、目を瞑り安らかに眠っている。
倒れた崇を見て、優太は暫く呆然と佇む。そして彼をそっと抱きかかえ、ベンチの上へと置いた。
隣に座った優太は、空を見上げながら、意識のない崇に語りかけた。
「ごめんな、許してくれ崇。お前は、俺らといちゃいけないんだ」 優太は、暫く天を見上げたあと、ゆっくりと腰を上げ、その場から立ち去った。
崇が起きる頃には、辺りは夕闇に包まれていた。
そして、優太に倒された事思い出す。
崇は眉間に皺を寄せ、拳をギュッと握る。
そして大きく一つ、息を吐いた。 暫くして、立ち上がるのと同時に、ポケットに入っていた携帯電話の着メロが流れる。
Bumpのボーカルの藤君が、優しく「状況はどうだい」と語りかける。
右手で取り出した携帯に、『健之介』の3文字が並んでいる。 崇は震え、そして勢いよく右手を大きく振りかぶり、携帯電話を叩きつけようとしたが、その手は 途中でピタッと止まり、崇は代わりに大きい声で「クッソ」と地面に投げ捨てた。 その間、電話は7コール鳴り、そして崇は10コール目でボタンを押した。
「もしもし」
「おっ、やっと出た。...なんか久しぶりだな、崇!」
健之介の音符が浮かんだその声を聞き、崇の心はより深い闇へと落ちていく。 崇は健之介のあいさつは無視し、優太が言った事を確かめる為に口を開いた。
「健之介...お前、優太に会ったのか?」
健之介は3秒ほど間をあけて言った。
「あぁ、会いに行った」
「なんの為に?」
「お前の為」
「......俺の為?」
言葉がそこで途切れる。 いくら友達とはいえ、余計な介入をしてほしくなかった崇の声には、ハッキリとした敵意が滲み出ていて、健之介もそれには直ぐに気づいていた。
その上で、健之介はずっと心にあった、正直な気持ちを崇に言った。
「崇お前、つるむ相手を考えろ。自分の価値を落とすだけだぞ?」
予想外の言葉が返ってきた。
いや、健之介がそういった感情を持っているかもしれないという事は予想はしていたが、それを口にして欲しくはなかった。
崇は震える声で返す。
「どうゆうことだよ」
「人は環境で良くも悪くもなる。レベルの低い不良とつるんでたら、お前のレベルも落ちるぞ。あん まり俺を失望させるなよ」
崇は言葉を返した。
「...健之介、あんまり調子乗るなよ?お前に、優太を馬鹿に出来る資格なんかねぇ」
「じゃあ、優太ってやつは俺より何処が優れてんの?」
「優太は、お前より強い」
「へ~、喧嘩ねぇ。あっそ。それで?他には?」
そう言われて、崇の声は喉で詰まったきり、出てくることがなかった。 健之介は、言葉を返せない崇に問答無用に追求する。
「俺より頭いいの? 俺より友達いるの? 俺よりモテんの?」
崇が持っているカードのリストには、健之介のその問いに対抗できるモノはない。
苦しくなった崇は、親友だったはずの人間に、言ってはいけない言葉を発した。
「優太は、お前みたいにそんな、、そんなクソみたいな事は、言わない!
優太は、、お前よりずっと優しくて...そんで、俺にとって大切なんだよ!!」
その言葉が着地した直後。
二人の間にあった目に見えない、大切な何かが、グシャンと音を立てて崩れる音がした。
出会った日から、二人でちょっとづつ積み重ねてきたかけがえのないもの。 その残酷な光景を、止める手段はもうない。
二人の胸に、後悔の念が強烈にやどる。
『こんな事を言うつもりはなかった』という崇の想い。 『こんな事を言わせるつもりはなかった』という健之介の想い。
本当は、まだ元に戻れる道が僅かにだがあったかもしれない。
しかし中学生の二人には、その道の進み方がわからなかった。 二人は、一度踏み入れてしまった間違った道を、進んだ。
「勝手にしてくれ...レベルの低い人間には、用はない」
「そーかよ。お前、中学入って変わったな。せいぜい優秀なお友達と仲良くしとけ」
そう言い捨て、崇は電話を切った。
携帯を耳に当てていた手。数秒経って、ストンと下に落ちた。 崇は悄然とその場に佇む。
そして、徐にその場に膝から崩れ落ちた。 地面を大きな目で見つめ、拳で叩く。
最初は軽かったその拳も、次第に強さを増していき、いつの 間にか崇の拳は擦れた血で赤く染まっていた。
崇の心は、切れた。
一本一本、時間をかけて縒り束ねていた信頼や友情。
大切に育ててきた世界一丈夫なはずのその糸は、一瞬にして風化し、ポロリと崩れた。 そして風に舞い、崇の元から去っていく。
崇には、強烈な喪失感だけが心に残った。
ぽっかりと空いたその漆黒の穴隙からは、希望や幸せといった正の感情は漏れ出し、ただそれ に耐えることしか出来ない自分の無力さに、崇はひたすら己を呪った。
『おれが大切にしてきたモノって一体何なんだ?』
家族もそう。仲間もそう。 大事にしたいものほど、自分の手から離れていく。壊れていく。 そして今おれの両手には、何もない。
持ってるのは岡田崇という名前と、生身の体が一つあるだけ。 それ以外には何も持っていない。
崇は絶望を抱え、足を引きずりながら、ゾンビのように呆然と帰路を歩いた。
崇のその眼は、この街に転校してきた日と同じ色をしている。 そしてその瞳には何も映っていない。
その日から、崇はまた、1人になった。 崇は藁をもすがる思いで、自分を慕ってくれていたグループの2人に声をかけたが、彼らはまるで崇などこの世に存在していないかの素振りで崇を無視した。
この時、崇は明確にわかった。 優太の言った通り、本当に俺は、必要とされていない人間なんだと。
そして 彼を彼たらしめていた『情熱の炎』は、完全に消えさった。
途端に、静かな毎日が訪れる。 グレジャスのような癖のあるメンバーと集まることも無ければ、健之介みたいな刺激物と遊ぶこともない。
普通に授業を受けて、家に帰って、暇を持て余すだけの毎日。
そうした中時間が経ち、物事が落ち着くと、崇に声をかけてくれる人間が、何人かできた。 サッカーに誘ってくれたり、一緒にカラオケにいったり。
平凡な人間の中で、一番仲良くなったのは、早坂蓮というクラスメイトだった。 彼とは趣味があい、サッカーや音楽の話など、直ぐに意気投合することが出来た。
彼と話している時間だけは、頭を空っぽにして笑えた気がする。
時間が解決したわけではないが、崇は過去を忘れるため、新たな一歩を踏み出そうとした。 健之介や優太の様な天才じゃなくて、普通の人間と付き合う。 身の丈に合わない夢なんて見ずに、一般的で平均的に過ごせばいい。
そう思った。
それと、生まれて初めての彼女なんかも出来たりした。
彼女を連れて、廊下を歩いてる最中、優太やグレジャスのメンバーとすれ違う事もあったが、お互 い目を合わせる事はなかった。
別になんてことはない。
そう頭で言って、心だけがズキっと痛む。
噂によると、まだグレジャスは活動を続けてるらしい。 友達からは、
「よかっな、あんな奴らとつるんでると、内心にも響くからな。縁切って正解だぜ」
と 言われ、崇は愛想笑いを浮かべたりした。
蓮が地元の進学校に進むと聞いた時、崇も同じ高校を行きたいと思った。
そして『一緒の高校いこーぜ』と蓮から誘われた時は、本当に嬉しかった。 崇にとってはハードルが高い偏差値だったが、マックに蓮と集合し、100円のココアで体を温めながら一緒に勉強する日々は少しも苦しくなかった。 崇は最後の一年間、優太や健之介から逃げるようにして、勉強に没頭していく。
こんなに勉強したのは、生まれて初めてのことだ。 模試のたびに、少しずつ自分の偏差値が上がっていくのが楽しかった。 もし、蓮に誘われていなかったら、どうでもいいような高校に言ってただろうなと思うと、彼には感謝してもしきれない。
そしてあっという間に月日は流れ、崇は卒業の日を迎えていた。
勉強にまじめに取り組んでいた崇は、志望校に合格することができた。
式も無事終わり、崇が帰ろうとしていると、蓮が声をかけてきた。
「たかし、ちょっと付いてきて欲しいとこがあんだけど」
そう言われ、崇は何だろうと疑問に思ったけど、彼の言う通りに、足を校舎の方へと運んだ。
そんな彼に連れられて向かったのは、北棟の最上階、5階の視聴覚室だった。 こんな人気のない部屋で、何があるというのか。崇は首を捻った。
ドアの前で蓮は足を止め、振り返り崇の方へ顔を向ける。 崇は
「なんだよ」
と苦笑いをすると、蓮はふっと笑い扉を開けた。
恐る恐る、崇は足を踏み入れる。 中には誰もいなかった。いつも通り、整理整頓された視聴覚室。 ただ、入ってすぐに、崇は気づく。
黒板に、何か書いてあった。 それは黒板いっぱいに描いてあり、何であるかは一目瞭然だった。 呆然と、教室の後ろにいた崇は、足をゆっくり進ませる。
そして丁度半分ほど来たところで、足を止めた。 崇はまばたきもせずに、じっと黒板を眺めて、そして徐に言葉を出した。
「ナルト」
そう、黒板に書いてあったのは、ナルトの絵だった。
それも、ナルト1人じゃない。 サスケはもちろん、イタチ、ねじ、ガアラ、リー、かかし、さくら、シカマル。 メインキャラが黒板内に所狭しと並んで、みんな笑っている。
「すごいよな、これ」
後ろから、そう蓮の声がした。 崇の目の奥が、じんわりと、熱くなる。
黒板に描かれているキャラには、それぞれ吹き出しがついていて、セリフを言っている。 一番大きく真ん中に書かれたナルトにはこう書かれていた。
『崇!お前はヒーローになる男だってばよ!絶対、まけんじゃねーぞ!』
そのバカバカと大きなセリフの最後には、申し訳なさそうに小さく書かれた「優太より」の文字が添 えられている。
崇の口から言葉がこぼれる。
「どうゆう......ことだよ」
震えながら、発せられたその言葉を、蓮は後ろからにっこりと見守っていた。
黒板には、グレジャス全てのメンバーのメッセージが入っていた。
『崇! だーーいすき!♡ 出世したら、ピザまんおごってくれよ!(現金なやつ笑』
『崇がいなくなった日々は、寂しかった...。でも、お前と出会えて良かった』
『グレジャスの二番隊長は、永久にお前だけだ 楽しかったぜ、相棒』
その中には、桐原翔太のものもあった。彼のセリフは、カカシが言っていた。
『崇...、俺は、あの時のことをずっと後悔してる。今更だし、許されるとは思ってないけど、謝らせ てくれ......ごめん。俺は、お前の事が好きだった。でも、やっぱりすぐに優太と仲良くなったお前 を、妬む気持ちもあったんだ。ちいせぇ奴だよな。これからは、お前にいつあっても恥じない生き 方をするから。またいつの日か...今度は笑って会おう 翔太』
そのセリフには、矢印が引っ張ってあって、「なげーよww」とツッコミが書かれてる。 崇は、目元を歪め、ふふっと鼻を鳴らした。
彼の頬と口角は、いつの間にか、自然に上に上がっている。
「気持ちのいい奴らだよな」
蓮が、そう言った。崇は返す。
「なんだよ蓮、お前...これどうゆうこと?」
顔に喜色を浮かべ、蓮は言う。
「優太とは、幼稚園、小学校が同じでさ、言ってしまえば幼なじみみたいなもんなんだ。まあ、咲ちゃ ん...あぁ、優太の兄貴が死んでからは、ほとんど話さなくなったんだけどさ。それで、優太と桐原 が停学になった時あったろ?あの時、頼まれたんだ。崇って俺の親友がいるから、仲良くなって 勉強とか教えてやってくれないかって」
その瞬間。崇の胸に、感情の洪水が流れ込んでいった。 その正体が、何なのか彼は分からない。 陰も陽も、多くのモノが混ざりあったその液体は、一瞬にして彼の体全体を埋め尽くす。
涙が、溢れてくる。
「なんだよそれ.........ふっ...ざけんな......そんなん...俺知らない...」
「ははっ、まあ言ってないからな」
崇は、あふれ出る涙をYシャツの袖で拭くが、それが止むまでに、袖はビショビショに濡れてしまっ た。
落ち着きを取り戻し、崇はその場でしばらく黒板を見ていると、徐に口を開いた。
「俺......行かななきゃ」
「待て」
足を踏み出そうとした崇を、蓮が止める。彼は言う。
「優太が、どんな覚悟でお前を辞めさせたと思う、崇。今お前があいつらにあったら、全部水の泡 だ」
「でも!!」
「...気持ちはわかるが、まだその時じゃないほら、書いてあんだろ?」
蓮はそう言って、ナルトの絵を指差した。
「ヒーローになれって。崇が次優太に会うのは、お前がヒーローになった時だ」
崇はそれを聞き、ワッと目を開くと、途端に顔を歪ませて、拳を握った。 蓮は笑顔で言う。
「さっ、帰ろ」
崇は、その絵を写真に撮る事はしなかった。 データとして残してしまったら、あの日々を思い出そうとする時間がなくなってしまう気がしたか ら。 あの絵は、崇の心の中に残されている。それは決して、ゴミ箱はいることも、消去される事もな い。
校舎をでると、大勢の人が目に涙を浮かべ、別れを惜しんでいた。 崇はそれを横目で見つつ、校門を通り過ぎていく。
2年5ヶ月前。
この町に引っ越してきた時。崇は絶望していた。
そして、あの後も、何度も絶望した。 あの頃から、自分は何が成長できたんだろうと、崇は思う。
でも、そんな事は、言葉で語れることじゃない。
なぜか、崇の胸は、爽やかな風が吹き渡るような、そんな希望に満ちていた。
彼は3月の空を見上げ、少し微笑む。 そしてお気に入りのアーティストの曲を口ずさんだ。
『ここが出発点
踏み出す足は
いつだって始めの一歩
君を忘れたこの世界を
愛せた時は会いに行くよ
間違った
旅路の果てに
正しさを祈りながら
再会を 祈りながら』