第二章: 健之介の暗黒期
富士幼稚園を卒園し、小学生になると、健之介と崇は違う小学校へとそれぞれ進学した。
この時運が良いことに、二人の縁は切れる事はなかった。
親同士が在園時代に仲良くなっていたため、小学生の時も家族ぐるみの付き合いが続けられたのだ。
どれだけ仲の良い友達同士でも、学校が変わるタイミングで疎遠になる事は往々にしてある。
昔仲の良かった友達と、最後に会ったのはいつかを思い出せば、そのことについて簡単に理解することができるだろう。
その点で言えば、運命の神様は、この二人の仲を裂くのはまだ早いと思ったのだろうか。
「うちに来なよ!」
と最初に言ったのは崇の方だった。
「うん!」
健之介は快く誘いにのった。
それを機に、家族の場でなくても健之介は崇の家に遊びに行くことになる。そして、崇の小学校の友人を交え、皆で仲良く遊ぶ日々が始まった。
なぜそうなったのかは分からないが、毎週火曜日の放課後に集まって遊ぶ、というのが二人の決まりごとになっていた。
1年生の時には近所の公園で鬼ごっこをし、
2年生の時は大乱闘スマッシュブラザーズにはまった。
3年生ではベイブレード、
4年生では遊戯王カードに夢中になった。
仲のいい二人ではあったが、喧嘩することはしょっちゅうだった。
かけっこをしては、「俺の方が速い!」 「いや俺だ!」
スマブラをしては、「俺の方が上手い!」 「いや俺だ!」
カードゲームをしては、「俺の方が強い!」 「いや俺だ!」
そんなやり取りが何年間も繰り返されて、同じ場にいた崇の友達は、呆れながらも羨望の目で二人を見ていた。
それは健之介と崇がどうしようもなく一生懸命で、二人の関係性が傍目から見ても特別だとわかるものだったからだろう。
大体は崇が健之介に対抗意識を燃やして突っかかることが多かったが、小学校になり体が大きくなるにつれ、運動能力成長曲線の第二次導関数は健之介の方が絶対的に大きく、その差は開く一方となっていた。
幼稚園の時には互角だった二人の関係も、いつの間にか、5回に1回崇が勝てば良い方という実力差になっていた。
健之介は毎回、「ったく、また無謀にも俺様に挑戦すんのか?」と言っていたが、内心では崇との勝負が毎回楽しみでたまらなかった。
圧倒的な運動神経を持つ健之介にとって、対等に張り合ってくれる唯一の人間、それが崇だった。
普段の健之介の世界には、崇ほど全力でぶつかり合える友達はいない。
大泉第二小学校に入学した健之介は、小学一年生の入学直後の頃から周囲の度肝を抜く。
体力測定で初めて50メートル走が行われた時、皆の視線は健之介に釘付けになった。
大きな体でダイナミックに走る健之介の姿を、丁度その当時流行っていた、ポケモンのギャロップと重ねた同級生は多い。
優雅に、一人だけ違う生物だと錯覚してしまうほど軽やかに足を動かし、隣の人間との差は瞬く間に広がっていく。
クラスメイトは直ぐに理解した。
『あぁ、…健之介は、僕たちとは違うレベルの人間だ』、と。
かけっこなどの陸上競技だけじゃない。
水泳をやらせてもサッカーをやらせても健之介は圧倒的で、なんか凄い奴がいるという噂はすぐに学年中に広がっていった。
当然の様に短距離走、水泳の学年選抜に選ばれ、サッカーでは同級生とはレベルが違うため、高学年の先輩の練習に混ざっていた。
「どうせ健之介には勝てねぇよ…」
ドッチボールをしても、鬼ごっこをしても皆が口を揃えてそう言うようになった。
小学生が使用する六法全書には、運動神経が良い人間がヒエラルキーのトップに降臨する事が記されている。
健之介は、まさしくヒエラルキーの頂点にいた。
多くの女の子から言い寄られ、一人だけ人生二週目なんじゃないかという程彼の能力はずば抜けていた。
一方、健之介の性格は、自分の能力に酔うタイプではなく、それによってクラス全体のマウントを取るタイプでもなかった。したがって、誰もに認められる存在ではあったが、軍団を従えるということはなかった。
小学校での健之介は、どちらかというと一匹狼気質の、孤高の子供であった。
それは彼が望んだ事でもあるが、同時に健之介の胸は、何故かいつも寂しい感情が存在した。
そのため、日常から切り離された岡田崇だけが唯一、健之介にとって寂しさから解放される場所だった。
彼は全力でぶつかり合える友であり、ライバルと呼べる存在だったのだ。
『健之介勝負だ!』 『くっそー! 今度は負けないからな!』 『っしゃー! 俺の勝ち!』
週一回。騒がしくそう叫ぶ崇の声が、何故かいつも心地良い。
「幼稚園の時は俺の方がリーダーで、喧嘩も俺の方が強かったんだよ?」
負ける度に自分の同級生にそう言い訳する姿はみっともないと思ったが、それでも最初から勝負を投げ出す人間よりずっといい。
偶に負けるのが本当に悔しく、勝った時は本当に嬉しく、崇の前だけでは本当の自分でいられる気がした。
いつの間にか、健之介の一番好きな曜日は、火曜日以外には考えられなくなっていた。
5年生に進級してもそんな変わらない日々を過ごしていた。
そんなある日の月曜日。
いつものように学校から帰ってきて、明日の崇との決闘に備えて、遊戯王のデッキを吟味している最中、部屋のドアがガチャリと開けられた。
顔を向けると、そこには憮然とした表情の母親の姿があった。
「健之介、ちょっと話があるから来なさい」
遊戯王に熱中していた健之介は、「何?」といって要件を聞く。
「いいから。下にいるから来なさいね」
そう言って母は、ドアを閉めた。
「なんだよもぉ」
そう言って立ち上がり、健之介は一階に下りていった。
神妙な面持ちをしている母の前に座ると、彼女は抑揚のない声で言った。
「健之介、あなた、受験しなさい」
…え?
「…受験?」
「そう、中学受験よ」
それを聞いた瞬間、頭の中は?マークで一杯になる。
受験という言葉は勿論知っていた。なんか、勉強を頑張って、試験に合格していい学校にいくやつだ。
しかし、健之介はそんな事は、自分とは関係の無い人間がするものだと思っていた。
学校でも、そんな言葉を発している友達なんていない。
「なんで受験なんてしなきゃいけないの?」
母は表情を変えずに言う。
「あなたの将来のためよ」
僕の将来…? 将来に、中学受験が必要なの?
僕は特別な存在だ。
運動が出来て、だから女の子からもモテて、男からも認められている。
運動が出来るから僕は普通の人間とは違う、特別な存在なんだ。
そんな僕が…
「勉強? そんな事をして意味があるの?」
その問いに対して、母親はその後2時間以上を費やして、健之介に意義を語る事になる。
母親の喋る言葉は、確かに日本語であるはずなのに、健之介にはその言葉が上手く聞き取れなかった。
そればかりではなく、目の前で口を大きく動かしてる自分の母親が宇宙人に見えてきて、健之介は早くこの時間が過ぎてくれとひたすらに「うん…うん」と繰り返す賛同マシーンと化していた。
父が帰宅し、母の説明はようやく終わった。
「わかった? 健之介?」
「うん」
結局、健之介は二つの事を約束してしまった。
明日から塾に行く事。そして偏差値60以上の中学の入試合格を目指す事。
なんだか、酷く疲れた…。
夕食を食べ終わり、健之介は自室へと戻る。
先程組みかけていたデッキが、無造作に床に散らばっている。
健之介は膝を折ると、カードを片付けながら呟いた。
「っちぇ。…折角崇に勝てる最強のデッキ作ったのに…明日あいつと遊べないのか…」
全てのやる気が消え失せ、健之介はベッドに大の字で目を瞑った。
次の日の放課後。
母と一緒に高田馬場にある四谷大塚という塾へ向かった。
建物に一歩踏み入れると、健之介は今までに感じたことのない異様な雰囲気を感じる。
そこにいる子供達は、健之介と同じくらいの年齢のはずなのに、小学校では見たことの無いような目つきをしていた。
目に、光が宿っていない。真っ黒に塗りつぶされた様な瞳をしていた彼らは、健之介の目にはまるで量産型のロボットのように見えた。何を思っているのか、何を感じているのか、全く読み取る事ができずに、彼らは黙々と参考書を見て手を動かしている。
僕もああなっちゃうの? …嫌だ、あんな風になりたくない!
健之介がそう思っていると、塾の講師が満面の笑みで「三浦様~、お待ちしておりました~」と近寄ってきた。母はそれに応えて笑みを作るが、健之介はとてもじゃないけど笑えそうにはなかった。
その後、別室のブースに通された後、健之介はその場に1時間程度監禁される。体感的には、半日近くに感じていた。
本当だったら今頃崇と遊んでいたと思うと、健之介はどうしようもなく絶望的な気分になった。ようやく解放され、最後に講師が言う。
「健之介君! 安心して! これからでも全然間に合うから! 一緒に頑張ろう!」
ゆっくりと頷くが、いつの間にか、健之介の目にも光が消えていた。
塾通いが始まった頃からだろうか。健之介は、猛烈に勉強することに対し抵抗を覚えていた。これまでの人生で、勉強に対して一生懸命になったことは無かったし、健之介の学力はお世辞にも褒められたものではない。先日、塾でのテストを行ったところ、偏差値40という数値が算出されて、講師は呆れていた。
やらなければいけないが、やりたくはない。人生で誰しもがぶち当たる壁を超えれずに、健之介は逃げていた。
塾をサボって親に怒られる日がしばしばあり、当然成績は上がらず、母親に何度も叱られた。
『なんで言ってる事が聞けないの!?』 『遊んでいて合格できると思っているの?』『他の子たちは今の段階から、毎日10時間も勉強しているのよ?』
『もう受験まで2年もないのよ?』
健之介は大人の理不尽さを呪った。
『あなたの為だから。大きくなったらわかる』を繰り返し、僕の気持ちなんて何も考えてくれない。
僕は良い中学に入りたいなんて思っていない。
お母さん…僕をいい中学に入れたいのは、自分自身のためでしょ?
18世紀にルソーが名著「エミール」で訴えたその教育論を健之介は心の中で叫んだが、21世紀の日本においてその悲鳴は、台風下に置かれたローソクの火のように一瞬でかき消される。
学歴社会の犠牲となる大多数の子供の一人として、不満を抱えながらも健之介は母の言う通り、勉強をするしかなかった。
それから健之介の世界は、どんどん色彩を無くしてしていく。全てが灰色に見えて、何をしても楽しくない。
元々勉強なんて、嫌いなんだ。その嫌いな事が人生の中心に強引にドカンと突き立てられ、他の全てを排除されてしまった。
健之介は、今までの人生で感じたことのない、心理的圧迫、つまりストレスを感じていた。
母親とは何度も言い争いをし、辛うじて火曜日の崇との時間だけは遊んでもいいことになった。家では常に親に見張られている気がして、少しも心が休まることはない。
水曜日の夜、参考書に向かい、数字の羅列を見ながら、健之介は思った。
『昨日、楽しかったな。…崇に、また会いたいな…。あいつと、思いっきりかけっこがしたい』
ドアが 開けられ、親が夜食を持ってくる。
「健之介、頑張ってる?」
「うん」
母が机に、ご飯を置いていく。
青魚、レバーにかぼちゃ、そして牛乳。昨日、母が見ていたテレビ番組の、頭の良くなる食べ物そのままだった。
母は机の上に、沢山の参考書が置いてあるのを嬉しそうに見ると、「じゃ、頑張って!」と言って部屋を後にした。
健之介はお腹は空いていなかったが、無理やり箸を手にして食材を口に運んだ。
最近、お腹が空かない上に味もそんなに感じなくなっていた。
その日の料理も、やっぱり味がしなかった。
受験生活が始まり、半年が過ぎたころ、健之介の学力は学年一位になっていた。
勉強が嫌いとは言え、毎日勉強していれば進学校では無い公立の小学校で一位になるだけの能力を、健之介は持っていた。
その頃だろうか。健之介に対する周囲の“当たり”が変わってきたのは。
運動もでき、異性からも人気のあった健之介だが、一部の同性の人間は内心、表には出してこなかったが嫉妬していた。
さらには、勉強も出来るにも関わらず、授業中は居眠りをしている健之介に対し、鼻持ちならないと眉をひそめる同級生が増えていった。
一方その頃の健之介は、受験のせいで生きる活力を失っていた。
無気力な表情で、常に疲れているように見え、人と話す事も少なくなり、休み時間は寝ている事が多かった。
嫉妬心の強い人間は、健之介が弱っているこの状況を見逃さなかった。
彼らは、健之介の肌の色に目を付けた。
健之介は、昔から肌が黒いという特徴があった。ハワイの保育園時代に焼けて、そこから黒くなったのだが、小学校に入り、サッカーを本格的にやるようになってからは、その肌はより一層黒くなっていた。
「冷静に見ると健之介の肌って、マジで黒いよな」
最初はコソコソと、遠巻きでそうした言葉が寝ている健之介の耳に入ってきた。
肌が黒いことは自認していたため、その言葉に驚きは無かったが、何故か胸がチクッとした。
健之介は元々、崇のように他人と同調性があったり、グループ行動を好んだりする性格では無い。
崇ならごくごく自然に、そう言った空気を自らの力で払拭するのだろうが、健之介にはそういった能力(性格)は備わっていなかった。
そのため、胸にざわめきは覚えていたが、それらの言葉にわざわざ反応する事もなく、放っておいた。
しかし最初は些細だった健之介を除者にしようという空気感は、徐々に徐々に、速くはないが確かな足取りで浸食体積を増していく。
健之介に話しかける同級生は次第に減っていき、自分の周りにだけ嫌な空気が纏わりついているのがわかる。
教室移動も一人で行く事が当たり前になり、昼休みのドッチボールに誘われることもなくなった。
いつの間にか健之介はクラスの中で、浮いた存在になった。
「健之介の肌の色、流石に黒すぎね? 正直言ってキモイわ」
そう、目の前で平然と言われるようになっていった。
ショックだった。
今までの人生で、誰かにイジられた経験は少なかった。自分に対して、他の人が敵意や不快感を向けて来たところで、健之介はそれに対する対処法を持ち合わせていなかった。ただひたすら、体の中からこみ上げてくる息苦しさに、黙って耐えてることしかできなかった。
その状況は健之介の性格を更に暗く変質させ、その暗さがまたイジメを加速させていった。
『うわ、近づいてくんなよ! 色が移るだろ!』
『こっくじん! こっくじん!』 『三浦アフリカ之介』
小学生独特のくだらない、センスの欠片もない暴言に、一人で耐え続けた。
そして、流石にあからさまなイジメだと分かる程周囲の当たりが強くなった時、ついに健之介の体は壊れた。
授業中。無意識に頭を触った時だった。5本の髪の毛が、教科書の上にフワッと落ちる。
健之介はそれを目の当たりにして、何でこんなに髪が抜けたのか疑問に思った。
恐る恐る、自分の頭皮をもう一度撫でてみると、十数本の髪の毛が雨の様に落ちて来た。
目を見開きギョッとする健之介。
明確に恐怖を感じたが、健之介はもう一度確認することを止めれなかった。
今度は、髪の一部分、狭い面積を指でつまむように持ち上げる。すると、抵抗力は一切働かず、健之介の指の間には、何本か検討も付かないほどの毛髪が抜けてしまった。
そこから先。健之介には再び髪の毛を触る勇気はなかった。
休み時間がなると、すぐさま一番人気のない校舎最上階にあるトイレに駆け込み、誰もいないことを確認してから鏡の正面に立つ。顔を下に、それとは逆に眼球を上に動かして、自分の頭皮の状態を確認しようとしたが、患部は頭頂部付近だったため、上手く確認することが出来なかった。仕方なく教室に戻る。
結局その日の授業は何も手につかず、かといって何も出来る事はなく、ただただ悶々とした、拷問のような時間を過ごすことになる。
帰りの会が終わると、健之介はすぐさま家まで走って帰り、家で頭の状態を確認した。
家にあったデジタルカメラを使い頭頂部を撮影して確認すると、案の定、そこには僅かだが地肌が見える部分が確認できた。
健之介は恐怖に震えた。
このまま、髪がどんどん抜け落ちてしまったらどうしよう。
一生生えて来なかったら、どうしよう。
こんなこと、誰にも相談できない。
健之介は結局、その日から3日間お風呂で頭を洗う事が出来なかった。
4日目になる頃には、頭皮は油にまみれ、流石に臭いも自分自身で気になるほど臭くなっていた。健之介は、意を決して頭を洗う。出来るだけ刺激を与えないように、ゆっくり、ゆっくりと洗ったが、シャンプーを水で流すと同時に、何百本もの髪の毛が抜け落ちていく。
目の前で起こる現実に、健之介は呼吸をするのも苦しく、人生で未だかつて感じたことのない絶望感で全身が支配されていた。
髪の毛を乾かすと、10円玉程の面積の地肌が、2箇所、ハッキリと存在した。
その後のシナリオは、想像に容易い。
頭には十円玉程の地肌が何か所か見えるようになっていき、それが原因で更にイジメが加速していく。
いじめっ子は嬉しそうに『ハーゲ、ハーゲ!!』とはやし立てた。
恥ずかしさと、悔しさと、情けなさで、健之介の目の奥からは熱い液体がこみ上げる。
そして健之介は、歯を食いしばってそれを耐える、地獄の様な日々を過ごした。
精神的に限界に近づいていたある日の火曜日。
健之介は、崇に合う事さえ辛くなっていた。頭の脱毛を、見られたくないという想いが強かった。それに、崇に自分がイジメられてると知られる事にも猛烈な怖れを感じていた。
こんな惨めな自分を見せたくなかった。崇の前では、対等な関係の、カッコいい自分でありたかった。
受験勉強に負けて、惨めにイジメられて、髪の毛まで抜け落ちた情けない俺を、一秒たりとも見てほしくない。
けれど神様はそんな健之介の気持ちを知ってか知らずか、そんな日に限って、崇を家まで迎えによこす。
「健之介ー、崇君が来たわよー」
母のその声に、驚く健之介。
慌てて押し入れの中から普段使いもしない帽子を探し当てて、下に降りていった。
「よう!」
息を切らしてそう言う健之介を、崇は一瞬不思議そうな顔で見ていたが、すぐに明るくニッコリ笑うと言った。
「行こうぜ」
健之介は心が折れそうになりながら、「おう!」と、必死で明るい自分自身を演じた。
その日は崇の家で遊戯王カードをした。健之介の気持ちを少し楽にしたのは、その日は崇以外に友達はいなかったと言う事だ。
しかし、外で遊ぶならわかるが、室内にいるのに帽子を取らないことを、崇に不審に思われないだろうか。健之介は不安を抱えながらデュエルをしたため、その日は崇にぼろ負けの連続だった。
時刻は6時を過ぎ、そろそろ健之介の帰宅が迫る時。ラスト一回の勝負にしようと二人で決めて、デュエルをしてる時だった。
崇がフィールドのと手札のカードを交互に見て作戦を立てている最中だった。
崇は目線を健之介に合わせることなく、突然言った。
「お前が俺に話さないって事は、俺は知らなくていいって事だよな?」
突然の言葉に、健之介の心臓は大きく一つ弾んだ。
『何のこと? イジメ? ハゲ? 崇は、全部知ってるのか!?』
体の隅から隅までくまなく、鼓動音が包み込む。その鼓動は止む気配はなく、寧ろ次第に大きく、ドクン…ドクンと健之介の体を攻め立てている。
…声が出ない。
そして崇は下に向けていた顔を上げ、健之介の目をしっかりと見つめた。
「答えろよ? そうだろ?」
その目には一切の不純物は存在せず、瞬きもせず、穏やかに健之介の瞳を見つめている。
言葉では、崇の言いたい意味を理解することは出来なかった。
だが、健之介には、この時確かに聞こえた。
崇の目が語っている。多分、この声が聞こえるのは世界で俺だけだ。
こんな事を誰かに言ったら、「健之介がついにイカれた」と大笑いされるだろうが、確かにあの時、健之介には崇の訴えが聞こえていた。
そしてその健之介だけに聞こえた“言葉”は、今まで悩んでいた膨大な何カ月もの時間が嘘のように、彼に行動すべき未来を示したのだった。
この間10秒。二人の視線はピッタリと、逸れる事なく交差する。
健之介は、ニヤリと笑った。
「ああ、お前は知らなくていい」
崇も笑い返した。
「そっか」
そう言うと、二人は何事もなかったかのようにデュエルを続けた。
そこまで0勝8敗だった健之介は、そのラストバトルでその日初めて崇に勝った。
自宅への帰路。健之介はいつぶりかもわからない清々しい気持ちに包まれていた。
健之介に聞こえた、崇に訴えかけられた言葉。あれは確かに脅迫状だった。
『俺の前に、そんなシケた面で現れるんじゃねーよ』
『俺のライバルだろ? 俺以外に負けんじゃねーよ。どんな敵だろうと、ぶっ倒せ!』
……………崇見てろ?
……俺は、
……俺は負けねぇ…
健之介は、帰り道を一切歩く事なく駆け抜けた。抑えきれない高揚感に、ジャンプしたり、意味不明な独り言を叫んだりしていた。
道ゆく人から見たら、確実に頭のおかしな人間に見られたに違いなかったが、健之介にとってはどうでもいい事だった。
勢いを止める事なく家のドアを開ける。
玄関に靴を脱ぎ捨て、すぐにリビングにいる親の前で、仁王立ちをした。
父親も帰ってきていて、両親は驚いた表情で健之介のことを見た。
「ど、どうしたの健之介?」
健之介は、吸い込んだ息を、吐き出すように言った。
「母さん、父さん。僕は、渋谷教育学園渋谷中学校に合格するよ。…必ず、絶対合格する」
健之介の言葉に、二人はさらに驚いたようだった。
父は眉をピクッと上げ、母は「健ちゃん…」と感動を隠しきれない様子だ。
しかし、健之介の本当に言いたい事はそれじゃなかった。
喜んでいる二人の笑顔を刈り取る準備はできていた。
健之介は意を決して自分の思いの丈をぶつける。
「その代わり、もし僕が渋渋に合格したら、もう、…こんっりんざい!! 俺の人生に口出しはしないって約束しろ!!」
そう言い捨てた言葉が宙に消えると同時に、その場に静寂が訪れた。
二人の顔にはもう笑顔はない。困惑の表情だ。
健之介は言葉を続ける。
「僕は、母さんたちの願望を満たす道具じゃない! この世に生まれて、呼吸をしてるのは、母さんたちのためじゃない! 僕のためだ……これは、僕の人生なんだ!」
健之介は、今まで言えなかった心の底から思っていることを叫んだ。
それを引き出したのは、間違いなく崇だった。
いつも突っかかってきたのは崇の方で、自分はそれを一歩上から見てるつもりでいた。あいつの兄貴のつもりでいたし、やんちゃな弟を相手してやってる気でいた。
けれど、今日初めて気づいた。
俺は、絶対に崇に負けたくない。あいつの前で、自信のない自分でいたくない。
虐められたとしても、親から受験を押し付けられようが、崇の前だけでは自分を偽りたくなかった。帽子なんて脱ぎ捨てて、ハゲなんて笑い話にすればよかった。
だからもう迷わない。どんな相手だろうと、どんな事があろうと、俺は自分の言いたことを言って、自分のしたいように生きる。
両親への言葉は、健之介の覚悟の現れだった。
母は絶句していた。
父は、最初数秒間深刻な表情で黙っていたが、徐にその腰を上げた。
健之介の目の前まで歩き、足を止める。
父は健之介の頭にポンっと手を置いた。
真っすぐ見つめ、健之介もそれに応えるように、目を背ける事無く父を見る。
父は穏やかに言った。
「知らん間に、大人になったな。…でも、母さんには謝れ。世界で一番お前のことを考えてる人間だ。人の気持ちを無下にする奴だけにはなるな」
健之介は瞬きもせず父の言葉を聞き、「わかった」と首を縦に振った。
その日を境に、健之介の振る舞いはガラリと変わった。
翌日登校した健之介は、いじめっ子にこう言った。
「お前ら、俺に嫉妬してんだろ? 悔しいんだったら俺より速く走ってみろよ? 俺より良い点とってみろよ? それができないうちは負け犬の遠吠えにしか聞こえねぇ。お前なんて眼中にないんだよ」
教室は静まり返った。イジメっ子のリーダーは、健之介の圧倒的な気迫に押されていたが、辛うじて言葉を返した。
「う、うるせぇ…黒が移るんだよ気持ちわりぃ、…話しかけんな…!」
健之介は少しも動揺をせず、無表情のままに言う。
「気持ち悪くて別にいい。この肌の色はな、それだけ僕がサッカーを練習したって勲章だ。文句あるかよ?」
いじめっ子は、健之介のオーラにそれ以上言葉を返すことは出来ずに、足早にその場を逃げていった。
長い、健之介にとって、とても長いイジメが終わる瞬間だった。
その後、ストレスがなくなると健之介の髪の毛は直ぐに復活し、まともな人間だけが再び健之介に話しかけるようになっていった。
健之介に、平穏な日常が戻っていった。
そして健之介はあの日以来、それまで嫌いだった勉強に、魂の全て捧げた。
学校でも勉強、家に帰っても勉強、休日でも勉強。毎日の生活を自らの意思によって勉強で塗り潰した。
健之介は、勉強している時に楽しいなどとは感じない。勉強とは、当時の彼にとっては明確に苦しいものだった。しかし、何とか彼が最後まで受験勉強を駆け抜けられたのは、週にたった1日の、崇との火曜日があったからである。
受験が間近に迫った頃、40だった健之介の偏差値は60を超えるようになっていた。
月日は流れ、小学校の卒業式が終わり、季節は3月の末に差し掛かっていた。
その日は、崇が健之介の家にくることになっていた。
ピンんポーン
インターホンがなり、二階にいた健之介が慌てて階段を降りると、すでに母が崇を迎えていた。
「おばさん、この度は健之介君の合格、おめでとうございます」
「あら〜、ありがとう! 崇君はほんっとに良い子! 崇君がいたからこの子も合格できたのよ。すごく息抜きになったみたい」
本当にどの口がそれを言うかと健之介は心で叫んだが、口に出すのはやめた。
「いや、そんなことないとおもいますけど。…お、健之介、よっ!」
「ういっす崇。とりあえず上がれよ、ケーキあるからさ」
「おう、おじゃましま〜す」
健之介と崇は、ケーキを食べながら話していた。
「それにしても、今思い出しても笑えるなぁ~。健之介の十円ハゲ!」
崇は腹を抱えて笑っている。
「バカ、あれは流行の先取だから。十年くらいしたらあれが時代の最先端になるから」
「はぁ? 町中に十円ハゲが溢れるようになるってこと?」
「そうそう」
崇は再び「ふっざけんな」と言いながら大笑いした。
健之介の母は、少し自分に責任を感じているのか、そのやりとりを見てバツが悪そうに苦笑いしてる。
ケーキを食べ終えた二人は、そのまま近くの梅の木児童公園へいった。
小学校生活で、数えきれないほど一緒に遊んだ場所だ。
二人はブランコに乗りながら、たわいもない話をしていた。
「中学生って、どんな感じなんだろ~な」
崇のその質問に健之介は言った。
「別に何も変わんないだろ~。ただ一つ言えるのは、もう当分は勉強しねぇ」
「ははっ。一生分やってたもんな…お疲れ様」
「さんきゅ! とりあえず当分はサッカーして、あとは遊びまくるわ。崇もサッカー続けるの?」
健之介と崇は、お互い小学校でサッカークラブに所属していて、二人ともフォワードを努めていた。
「んー、わからん。…そういえば、健之介の受験が始まる前は、一緒の中学言って2トップ組もうってよく言ってたよな」
「言ってた言ってた! 懐かしいなぁ。……得点王は俺がなるけどな」
「は? ふざけんな、俺がなるに決まってんだろ」
「いや俺だ」「俺だ」「俺」
崇は目を瞑り、大きくブランコを漕ぎながら言う。
「…ったく、しつこいなー! どうせ中学別々なんだから、もうそんな事考えなくていいんだよ」
それを聞いた健之介は、崇の方をチラッと見た後、目線を正面に戻し笑った。
「俺ら、何回こんなやりとりしてんだろーな」
「…数えきれねぇよ」
崇がそう言うと、二人の間に、静寂が流れた。
キー キー キー
周囲には人影はなく、健之介と崇の漕ぐブランコの音だけがなっている。
「崇は、中学行ったらしたい事とかあるの?」
「え〜、したい事ー? 俺かー、…なんも決めてないけど……まぁとりあえず、ビッグになりてぇ!」
健之介は笑った。
「なんだそれ! …じゃあ、俺はお前よりもっとビッグになる!」
「ふざけんな! 俺の方がビッグになるに決まってんだろ!」
再び意味のない禅問答が続いた。
その後二人は、ブランコに飽きると砂遊びをし、砂遊びに飽きると、鬼ごっこをした。
一日中体を動かして満身創痍になった二人は、5時の鐘がなったところで家に帰ることにした。帰路の途中、健之介が突然言った。
「そうだ、一つやりたい事があった」
崇は言う。
「何?」
「俺、旅をしてみたい。家族と一緒じゃないやつ。もっと外の世界を自分の目でみたいかもしれない」
「…確かに、いいねそれ」
そう崇が言い終わると、10秒ほどの沈黙が流れた。
そして健之介は徐に口を開いた。
「中学入ったら一緒にどっか遠くに行ってみるか」
それが耳に入り、崇は一瞬驚いた表情をみせたが、途端に満面の笑みにクシャっと表情はかわった。
「おう! 行こうぜ! 帰ったら色々調べてみる!」
健之介も笑った。
「俺も!」
二人は中学生前の、最後の火曜日をそうして別れた。
健之介にとって小学校の最後の二年間は、はたから見たら、良い思い出とは決して言えないものであろう。嫌いな勉強で溺れ、イジメられて、精神も大きく疲弊した。
しかし、彼は大人になってこの時期を振り返っても、不要な経験とは思っていない。
むしろ、代えがたい経験だとも思っている。
それは間違いなく岡田崇という人物と、あの火曜日の日々があったおかげだろう。
そして健之介は、崇に「ありがとう」などとは言わない。
恐らく、崇も健之介にそんな事は言われたくないだろう。
この二人にあるのは、何を言ったかよりも、何をやったかという、絶対的な尺度だけだった。
だが、公園からの帰り道。
実は健之介は、崇には聞こえない様に、心の中でそっと呟いていた。
『ありがとな、崇』
健之介はそう言って隣の親友を見ると、そいつは無邪気に笑っていた。
その瞳は、真っすぐと、沈みゆくオレンジ色の太陽を見つめている。