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第四章後編: 健之介の覚醒〜高校生〜

人生って不思議だ。

大人になった健之介は、そう思う。

全てが自分の思い通りに行き、『この世界は我が手中にあり』と咆哮する日もあれば、
まったくダメな事続きで、『俺は世界一ダメな奴だ』と己を自傷する日もある。

陽の日と陰の日のジグザグ毎日。

ニュージーランドへ行った最初の数ヵ月は、まさにそれが顕著で、ジェットコースターの様な日々だった。

合宿での陽の日々も凄かったが、都会での陰の日も激烈だった。

結末は散々だ。



あの自己嫌悪の絶望の後、健之介には更なる苦難が待っていた。
夜な夜なホストファミリーのパソコンでエロ動画を見ていたのがバレたのだ。

16歳の性欲を見くびってはいけない。

どんなに落ち込んでいようとも、性欲は湧いてくる。
それを発散する相手もいなく、健之介は惨めに一人慰められていた。

更に悪いことに、ニュージーランドはなぜか卑猥な動画に関する規制が厳しかったため、ホストファミリー怒鳴り散らかされ、この上なく惨めな想いをすることになる。
留学を斡旋してくれた会社に通達され、日本に強制送還されそうになり、日本の両親からも国際電話で怒られ…と言う散々な目にあい、結局ホストファミリーとの関係性も修復不可能な状態になった。


文字通り、どん底に陥った健之介は、再起をかけて、ホストファミリーと学校の両方を替えるべく動いた。


要は、親を説得し、ホストファミリーを変更しつつ、転校させてもらう事にしたのだ。


今の家族と学校で全てをやり直せる力量は、流石に手にしていなかった。

ニュージーランドに来て、最初に乗った合宿所へのバスも、次のホストファミリーの家への道中も、どちらも健之介の胸には希望が宿っていた。

しかし、今度は違う。

他人に対する不信。自分に対する不満。新たな環境に対する不安。

そんな負の感情が練り混ぜられ、健之介らしくない渋い表情が顔に浮かんでいる。



バスは都会を離れ、田舎へと向かっている。
丘陵地が広がっており、羊がいっぱいいる。
長閑な景色。
その穏やかさが、健之介の心を少しだけ落ち着かせた。

バスは、目的地へと到着する。

停留所から、新たなホストファミリーの家は距離があるため、車で迎えに来て貰う事になっていた。
バスから降り、荷物を出してもらっている時。反対車線に車が止めてあり、二人の人間が、こちらを見て笑顔で手を振っていた。

思わず頭を下げて、バスが出発した後、駆け足で彼らの元へと足を運ぶ。
50歳位の、男の人と女の人がいた。

男の人は、160センチ位の身長で、顔中ヒゲモジャ。
女の人は、175センチ位の慎重で、アフロヘアー。

突っ込みどころ満載な夫婦であったが、健之介は頭の中から湧き出す様々な疑問を振り払った。
前回の教訓から、調子に乗ることにはもうこりごりなのだ。
二人の顔を真剣な表情で交互に見て、頭をビシッと下げて言う。

「初めまして、三浦健之介と言います! 今日からよろしくお願いします!」
一秒。…二秒。

「…」

……三秒、四秒。

「…………」

健之介は、悟った。

『また…か…』

このホストファミリーも、自分を大歓迎してくれるわけじゃない。
そう確信し、彼が頭をあげようとしたその時だった。

頭上から、まるで花火が上がったかの様な、鮮烈な破裂音が鳴り響く。

「ハーーハッハッハ! 見てコルン! これが日本人よ! 噂通りに礼儀正しいわ!」

健之介は顔をあげる。
女の人は爆笑していて、夫の背中をバシバシと叩いている。

「あぁそうだな。いい少年で良かったなジェーン」

男の人はそう言うが、表情は崩さない。
あっけに取られている健之介に、女の人は言った。

「よろくね健之介! 私がジェーンで、こっちの堅物がコルンよ!」

「…あっ! よ、よろくおねがします!」

三人は握手を交わした。

「さっ、こんな所で立ち話もなんだから、早く家に行きましょう! 車に乗ってケン!」

「はい!」

三人は、車内に入り、そのままジェーン達の家へと向かった。
後部座席に座る健之介。
彼の心臓はドキドキといってる。
それは嫌なドキドキじゃなく、健全で刺激的なドキドキだった。

まだ会って二言、三言しか交わしていないが、二人ともいい人そうに見えた。

それに、ケン…って。いきなりあだ名で呼ばれた事が嬉しかった。
それは前の家では経験しなかった事だからだ。

健之介が頬を緩ませていると、助手席に乗るジェーンが、大きな声を車内に響かせた。

「ケン! あなたエロ動画見て追放されたんだって!?」

「……えっ!!? あ、はい!」

「ハッハッハ。まったくもう、それ位で怒るなんて短気な奴ね! ハズレくじにあたったわね!」

「い、いえ。僕がいけないので」

ジェーンは簡単な単語の羅列で、健之介でもなんとか理解できるように配慮してくれ、健之介もたどたどしい英語ながら、身振り手振りでなんとかジェーンに言葉を返す。

「でも、ニュージーランドは規制が厳しいから、ネットは注意しなさいね」

「はい! わかりました、ありがとうございます」

ジェーンはそれを聞くと頷き、運転中のコルンに「あなたのDVDコレクションを貸してあげなさい、外人でも大丈夫かしらケン」などと、日本では考えられない様なフランク(?)な言葉を健之介に浴びせ、そんな砕けた会話は、車内にいる間中続いた。


そうしてるうちに、十分程で家に着いた。

車を降りると、見渡す限りの羊牧場が広がっている。
そう、健之介はこれから帰国するまでの間、羊牧場で暮らすことになったのだ。

夕日が沈みかけていて、西から降り注ぐ柔らかな光が三人を照らし出す。
広大な敷地に目移りしてる健之介を、ジェーンとコルンは暖かな笑顔で見守ると、ジェーンは健之介に呼びかける。

「ケン!」

その言葉に、健之介は二人の方を向いた。
二人は両手を広げ、声を揃えて言った。

「ようこそ! 我が家へ!」

心にあったつっかえが、スッと取り除かれていく。
健之介は背筋を伸ばすと、もう一度二人に頭を下げた。

「一年間、よろしくお願いします!」

一、二秒後に、「メェ〜」という羊の声が聞こえてくる。

ジェーンとコルンは、ぷっと笑い、「羊も歓迎してるみたいだわ」と言った。
健之介は頭をあげると、彼らと一緒に笑い合う。


調子には乗らない。
でも、俺は俺らしく。大胆に。そして前を見てやっていく。
彼はそう自分の胸に誓った。


家の中に入ると、豪勢な夕食が用意されていて、自己紹介をお互いにしていった。
人員構成はこうだ。

フォーブス・コルン…この一家の大黒柱。低身長、ヒゲモジャで無口。背中で語るタイプのダンディなお父さん。

フォーブス・ジェーン…コルンとは対照的で、高身長なイケイケママ。髪型はアフロで、家でもハイヒールという強烈な個性の持ち主。教育に熱心で、ユーモアセンスも高い。

マーティン…家の中に入ってはじめましてをしたのだが、コルン一家には健之介の他にも留学生がいて、それがドイツ人の彼、マーティン。性格などの素性は不明…。

家の中にいる人間は健之介を含めこの四人だ。
コルンとジェーンには息子が三人と娘が一人いるが、いずれも大学生や社会人になっており、この家からは巣立っている。

そして最後。

なんと言ってもフォーブス家の主役は、人間ではない。
それは羊を中心とした動物達だ。

子羊(ラム)が2,000頭、羊2,500頭。
そして牧羊犬が4匹に、豚が15頭、鶏が10羽、猫が2匹。

この膨大な数の動物の世話を一手に担わなければならないとなれば、これは大変だ。

夕食の時、そんな日々の生活の事を聞いたり、逆に健之介のこれまでの事を話したりして時間はあっという間に過ぎて行った。
基本的に前の家とは違い、ジェーンを中心にみんな健之介に興味を示してくれ、終始ざっくらばらんな雰囲気だった。
一つ気になることがあるとすれば、健之介が話題の中心になっている時、マーティンが些か不機嫌な様子に見えたことだった。

就寝前。

健之介は風呂を入り終え、自分の部屋に戻ろうとすると、マーティンが声をかけてきた。

「ケン!」

健之介は振り返り、言葉を返す。

「やぁマーティン、どうしたんだ?」

「君はまだ、この家の事は何も知らないだろ? 分からない事があったら何でも聞いてくれ! なんたって、俺は君より1個年上なんだからな」

「あぁ…それは頼もしいよ。ありがとうマーティン」

自信満々なマーティンに、健之介は当たり障りない言葉を返した。

「じゃ、また明日なケン!」

「うん、おやすみマーティン」

部屋に入りベッドに潜り込んだ後、健之介は色々な情報を整理していた。

コルンとジェーンは、とても良い人そうだ。
マーティンは……ちょっと良くわからないけど、癖がありそうな感じだな。
でも、前の家より全然いい。ここなら、充実した毎日が過ごせそうだ。
直ぐに学校も始まるし、今度はちゃんと、皆とコミュニケーションとらないとな。
とにかく、最初が肝心だ。出だしがスムーズにいけば、今後の生活が大分楽になる。
頑張らなきゃ!   ………、あと、エロ動画には気を付けよう。

心でそんな決心をすると、健之介は、目をつむり、長い一日を終えた。


そして、そこからの毎日は、怒涛の様に忙しい日々だった。


学校が始まると、皆と積極的にコミュニケーションを取った。
田舎の学校という事もあり、日本人はおろかアジア人すら一人もいない。
その事実は、健之介にとって丁度良かった。

前の学校では、日本人とつるんでしまったせいで、留学した意義を失いかけた為、強制的に外人とコミュニケーションを取らなければいけない環境はウェルカムだった。

だたやはり、英語がまだ未熟な健之介にとっては苦労する事も多く、特に勉強の面では、毎日ついていくのに必死だった。

一方自宅では、動物の世話や家事などを、積極的に手伝った。

最初はコルンの後を引っ付いて歩き、やってる内容を頭に焼きつけていった。
仕事内容は多岐に渡っていたが、その中でもメインとなるのが、羊のいる地帯の管理だ。

コルンの羊牧場は広さ140haをほこり(東京ドームおよそ30個分)、それが細かく区分けされていた。

理由は区分けごとに羊を管理しつつ、常に半分くらいの区分けは羊がいない状態にしていて、羊が牧草を区分けごとにしか食べれないようにするためである。
だから、今羊がいる区分けの中の牧草が食べ尽くされてきたら、別の青茂っている区分けに誘導して、その間に食べ尽くされた区分けにまた芝生が生えて…を繰り返す。

そして、その羊の誘導方法はと言うと、人がモーターバイクに乗りつつ、羊犬2匹と一緒に3点で羊を囲んで追って行って区分けと区分けの開口部に押し込んでいくというものだった。

コルンは、まず健之介にこの作業を出来るように練習させた。

この作業は、牧羊犬とのコンビネーションが大切だ。
いくら健之介がバイク操作が上手くなろうと、犬との呼吸が合わなければ、うまく羊を追いやることは出来ない。

羊全体の流れを一瞬一瞬把握し、誰がどの領域をカバーするか、各々の役割を理解し合う。

これは簡単な事ではないし、仮に人間が変な動きを取ってしまったら、犬からの信頼を得ることは出来ない。

健之介は、まずはモーターバイクを乗りこなせるようになる所から練習し、それを習得すると実践に移った。

最初のうちは中々犬との呼吸が合わずに、健之介が足を引っ張ってしまう事が多かった。

日が沈み、一日が終わり、浮かない表情をしていると、マーティンがやってくる。

「ケン、どうしたんだ苦い表情をして」

「やあマーティン。…ごめん、羊追いが上手くいかなくってさ。犬に迷惑かける自分が情けなくて」

「そう落ち込むなって。俺なんて、毎日失敗続きだぜ? 最初から上手く行く奴なんていないさ」

正直、マーティンは健之介から見て能力に乏しい。
頭も悪いし、顔も悪い。

お前と同じにするなよ。そういう想いが1ミリも無かったわけではない。

しかしこの時は、それ以上に声をかけて貰った事が、健之介は嬉しかった。
何日か過ごしてきて分かったが、マーティンは、馬鹿だけど良い奴だ。
健之介はそう彼を定義づけた。

「サンキューマーティン! 明日こそ成功するから、見ててくれ!」

マーティンは親指を立てニコッと笑い、顔を不細工にクシャっと歪ませる。

「お~い」

後ろから、コルンが呼びかける声が聞こえてきた。
二人は振り返り、「何~?」と声を張ると、「ちょっとこっち来い」という声が返ってくる。
足を走らせコルンがいる家畜小屋の方に向かう。

小屋の入口前でスピードを緩め、ゆっくりと足を運ぶと、コルンが丁度生まれたての子羊を見守ってる所だった。

「うわっ! 可愛い! 生まれたてだ!」

マーティンがそう声を上げる。

コルンは顔を上げ、微笑みを見せると言った。

「ケン! マーティン! お前らにこの子羊をやろう」

「え!?」

健之介とマーティンは、声を揃えた。

「コイツはお前らのペットとして飼う。だから殺さない。しっかり世話してやれ」

「う、うん」

健之介はこの時、まだ家畜に対しての接し方を、上手く掌握出来ていなかった。
毎日一緒にいて、家族も同然の存在だが、食肉用に育てている動物はいずれ殺される。
その事実は頭では完全に理解しているが、一方その事実を自分の中でどう解釈していいのか分からないし、考えた事もなかった。
多分、無意識レベルで、過度な感情移入はしない事をその時の健之介は決めていたのだと思う。

家畜は家畜。その事実は変えようもない。

それにも関わらずこの時、健之介に新たな選択肢が与えられてしまった。

殺されない家畜。

時間が経つにつれ、まるで真冬の冷たい体がお風呂で温められる様に、健之介の胸にある一つの感情が主張を始める。
健之介が、不思議な思いに駆られていると、隣から能天気な声が大きく一つ浮遊した。

「マーティンだ!」

健之介はゆっくりと首を回す。

「は?」

そう口走ると、マーティンもクルっと顔を健之介の方へと回し、子羊を指さして言う。

「コイツの名前! こいつも俺と同じ、マーティンだっ!」

「な、なんで!?」

「何でもかんでもない! コイツの名前はマーティンだっっ!! ケン、OK?」

「う、…うん」

マーティン…。やはりコイツは馬鹿だ。
健之介はそう心で呟いたが、思わず認めてしまったからには仕方ない。
顔を子羊の方へと向ける。   

『…マーティンか』

健之介は、手を差し伸べた。

「…マーティン」

マーティン(子羊)は、首を上下左右に小刻みに動かしてる。
健之介、マーティン、コルン。
皆膝をおり、穏やかな表情でマーティン(子羊)を見ていた。

マーティン(人間)が舌を鳴らし、呼びかける。
「ほらマーティン、返事をしろっ」

マーティン(子羊)はキョロキョロと三人を見て中々返事をしなかったが、マーティン(人間)がしつこく「ほらっ、どうしたマーティン、鳴け!」などと言葉を浴びせると、仕方ないなという感じでようやく一言返事をした。

「メェ~~」

その瞬間のマーティン(人間)喜びよう。
目に七色の宝石を目一杯詰め込んで、その場で飛び上がった。

「っっひゃっほーーーう!! 鳴いた! マーティンが鳴いたぜ! ケン、聞いただろ?」

健之介は笑顔で頷いた。
コルンは「大袈裟な奴だな」と微笑んでいる。

健之介の中で、餅のように、ぷくぅと正の感情が膨れていく。

確かに、マーティンは馬鹿で、渋渋にいた時の同級生と比べれば遥かに知能では劣っているかもしれない。
だが、この馬鹿からしか得られない事が確かに存在しているという事を、健之介は確信していた。
この日。健之介の家族メンバーのカウンターは、1つ数字を加えた。


そしてそれから数週間後。


「ペッパー! ベンジャミン! そっちは任せた!」

羊牧場に、そう健之介の声が響いていた。
モーターバイクのエンジン音、2匹の牧羊犬の足音が健之介の声とハーモニーを奏でだし、中華鍋の中のチャーハンのごとく、羊群の流れ操っている。
コルンはその様子を見て莞爾と微笑み頷く。

仕事が一段落しそうな所で、マーティンがゆっくりとやってきた。

「ケーーン! いくぞーー!」

健之介はそれに気づくと、「オッケー!」と大声で返事をする。
二人が向かう先は、マーティン(子羊)の元である。

「そ~っと、そーっとだよ」
「分かってるってうるさいなぁ」

先頭に立つマーティンは、健之介の忠告を無視して、ガサツに足を進めていく。

「あっ!」

「ほら~、言ったじゃんマーティン! もっと静かにだって」

マーティン(人間)は「フンッ」と拗ねた顔でソッポを向く。

マーティン(子羊)は当然草食動物だ。彼らは自分より大きな動物には基本的に近づかず、逆にこっちが近寄ると逃げていくのである。
健之介とマーティン(人間)は愛情をもってマーティン(子羊)を育てていたが、それでも心を許してくれるまではいっていなかった。

マーティン(人間)は、言う。
「いいもんね。こっちには、とっておきの物があるんだっ!」

床に置いてある哺乳瓶を手に持った。
チラチラと左右に揺すりながら、したり顔でゆっくりと近づいて行くと、マーティン(子羊)は哺乳瓶に気づいた。
慌ててマーティン(人間)に近寄っていくマーティン(子羊)。

マーティン(人間)は勿体ぶって届かない所で哺乳瓶を揺すりながら、「欲しいか? 欲しいかぁ?」と悪い顔をしていた。

「メェ~、メェ~」と必死になくマーティン(子羊)。

健之介はその様子を見て、呆れながら苦笑する。

「可哀想だろ~、早くあげてやれよ」

マーティン(人間)は鼻を鳴らすと、「しょうがないなぁ」と言いながら、ミルクをあげた。

「ひれ伏せ! ほら、ミルクが欲しいだろ!? ひれ伏せマーティン!」

顔に全力の笑顔を貼り付け、気持ち悪くそう叫ぶマーティン(人間)を見て、健之介は自問する。
『あれっ? 俺、コイツから学ぶ事が本当にあるんだっけ?』

大きなため息を着くと、健之介は「貸してっ」と哺乳瓶を奪った。

「おいっ、何すんだよ!!」

「マーティーン。美味いか~? ほら、いっぱい飲め~」

夢中で哺乳瓶をハグハグするマーティーン(子羊)を、健之介は優しい気持ちで見つめていた。
その瞳には、以前とは少し異なった朗らかな覚悟の様なものが宿っている。


実は先日。

コルンに無理を言って、精肉所へ連れて行ってもらった。
精肉所とは文字通り、フォーブス家が愛情を注いで育てている動物を、肉の塊に処理する場所だ。

「無理して見る必要はない」とは言われたが、畜産農家にお世話になっている以上、ちゃんと全てを見ておかなければならないと思っていた。
それは、羊の世話をしているうちに漠然と湧いた決意だった。
当然ながら、コルンの羊も流れ作業で解体されていった。

電気ショックで気絶させ、ナイフで殺し、宙吊りにし、皮を剥いで内臓を出し、精肉する。
牧場で一緒に駆け回っていた仲間が肉になるところを、まばたきもしないで、しっかりと目に焼き付けた。


今、目の前にいるマーティン(子羊)だって、自分達のペットにならなければ、ああなっていた。
思う事は色々あったが、それを見た後で、健之介は二つの決意をした。

一つは、食事の際はちゃんと心の中で「いただきます」という事。

もう一つは、今、目の前にいる、“マーティン(子羊)”に全力で愛情を注ぐこと。

この結論が正解かなんて分からないけど、少なくともその時の健之介は、これが自分の出した答えなんだと、そう自信を持って言う事ができた。

ミルクを上げ終わると、マーティン(子羊)の頭を撫でて言う。

「また、明日なマーティン」

するとマーティンは足早に逃げていく。
健之介はその様子を、満足そうに見守っていた。


健之介はこうして、変わらない毎日をすごしていく。

学校。家畜の世話。勉強。

充実した日々を過ごし、フォーブス家に来てから数ヵ月経つ頃には、健之介はしっかりと自分の居場所を確立していた。


学校では友達が一杯でき、英語の勉強も頑張った成果もあらわれはじめ、立派にコミュニケーションを取れるようになる。
家では仕事をしっかりと覚え、コルン、ジェーン、マーティンとの関係も良好だ。
ジェーンは家事の忙しい合間を縫っては、健之介の英会話の勉強に付き合ってくれた。その時間のジェーンは、普段より厳しかったが、その分褒めてもくれたので、健之介は嬉しかった。

人間とは不思議なもので、忙しく余裕の無い時は目の前の事に一生懸命で視野狭窄に陥るが、時間や気持ちの余裕が生まれると、今まで考えなかった事に対して思考が向くようになる。

健之介はふとした時間に、過去について、未来について、そして自分について考えることが増えていった。

一つ明らかな事は、その時の健之介は、日本にいた時とも、ニュージーランドの合宿所にいた時とも、まして都会の学校にいた時とも、異なる人間になっていたという事だ。

不思議な感覚だった。

たった数ヵ月前の自分の事が、とても幼い人間の様に感じる。
特に、勝手に周り人間を奈落に落とし、自分だけが平地で空を見上げていると思っていた日本時代の事を思い返すと、顔から火が出てしまう。

健之介が何を悟ったのかというと、一人では、人間は無力だという当たり前の事だった。

ここに来て、周囲へのありがたみを人一倍感じる。

コルンが自分を引き受けてくれなかったら、日本に強制送還されていただろう。
ジェーンの明るさがなかったら、こんなに直ぐに都会の失敗を払しょくできたかわからない。
マーティンは、……ポンコツだけど、今では一番の親友だ。
学校の皆もそう。羊もそう。マーティン(子羊)の世話はいまじゃ生きがいだし、ペッパーとベンジャミンがいるから羊を自由に操れる。

皆がいなかったら俺に何が出来る?

日本にいたときもそうだったんだ。
毎日生きるのに困ったことはない。
食事は自動的に出てくるし、遊ぶお金だって困らない。
母親がいなかったら進学校に行く事もなかっただろうし、友達だって、今考えれば全く誘われなかったら、多分もっとつまらない毎日だったと思う。

あの時は、そんな事には気づかずに、ただそこから抜け出したかった。
息詰まる様な、檻の中に自分はいると思った。

多分、自分が最初からここニュージーランドに生まれてたら、マーティンを蔑みながら、日本に行く事を夢見てたかもしれない。

環境を変える事でしか見えないモノが存在するという事実に、健之介は気づく事が出来た。

今なら、崇の事も少しは分かる気がする。

健之介は、広大な牧羊地で、数多の動物と触れ合う日々の中で、一年間をかけて、あることを心に決めていた。


そして、ニュージーランドで過ごす最後の日が来た。


帰国の準備をする健之介。

その合間を縫って、健之介は広大な牧羊地に足を伸ばした。
今までの記憶が詰まったその場所を、健之介はゆっくりと巡る。
最後の別れを言うためだ。

数千頭の羊たち。

まさか、こんなに田舎に来て、羊と戯れる日々を過ごすなんて、日本にいた時は想像もしていなかった。
でも羊たちが俺に新たな仕事を与えてくれて、そしてそれが居場所に繋がった。
そして最高にお前たちは美味かった。

『羊たち、ありがとう』

ペッパー、ベンジャミン。
2匹はくつろいでいたが、健之介に気づくと慌てて駆け寄ってくる。思わず笑みが零れる健之介。

「よーしよしよし、ペッパー、ベンジャミン! ほい!」

健之介は近くにあったボールを投げる。
2匹は、ボールを取りに颯爽と駆け出した。

健之介は2匹の後ろ姿を見ながら思う。
ここに来て最初の仕事は、お前らの信頼を勝ち取る事だった。
連携を取るのに必死だったし、どうしたら上手くお前らと呼吸を合わせれるか、毎日毎日考えてた。
そして上手くいった初めての瞬間。お前ら駆け寄ってきてくれたよな。
あの時初めて、本当の意味でこの場所に認められた気がしたよ。

『ありがとう ペッパー ベンジャミン』

健之介は時間をかけてゆっくりと隅々まで足を運び、そして、最後にある動物に会いに行く。

健之介は小屋に入った瞬間、声を上げた。

「あっ、やべ、ミルク忘れた」

最後に訪れたのは、健之介とマーティン(人間)のペット、“マーティン(子羊)”の元だ。
だけれども、健之介には哺乳瓶がない。
あれがないと、マーティン(子羊)の心を掴むことは出来ないんだ。
近づいても、草食動物の習性上逃げられる事は確実だった。

途方に暮れてる健之介に、マーティン(子羊)が気づいた。

目の合う二人。

マーティン(子羊)はスクッと立ち上がる。
健之介が、マーティン(子羊)を驚かせない様に、その場から去ろうとしたその時だった。

頼りない足並みで、ゆっくりと足を進ませるマーティン(子羊)。

それは、健之介と反対の方ではなく、紛れもなく、健之介に向かってきていた。

驚きと共に、棒立ちする健之介。

目の前に止まると、大きな声で鳴いた。


「メェ~」


その瞬間。

健之介の目の奥の方から、熱いモノがこみ上げてきた。

奥歯をギュッと噛み締め、涙袋に力を入れたが、あっけなくそれは零れ落ちる。

健之介は、マーティン(子羊)を撫でた。
「…ぉ………大きくなったな…」

最初は、自分の膝位しかなかったマーティンも、今では体重40キロを超える立派な大人だ。もうラムではなく、マトンといった方が正しい。

その成長が不思議で、そして近寄って来てくれた事が嬉しくて、心が初めて通じ合った気がして、健之介はニュージーランドに来て初めて涙を流した。

「俺が泣いたの、二人の秘密だぜ?」

「メェ~」

健之介はクシャっと笑うと、思い切りマーティン(子羊)を抱きしめた。
そして一言、マーティンに最後の言葉を言った。

「Good Bye…Martin」

帰国の準備を終え、荷物をコルンの車に入れ終わる健之介。

ゆっくりと振り返ると、マーティン(人間)の姿があった。
彼は目に赫く光を溜めて、健之介の事をジッと見ていた。
健之介もマーティン(人間)の目を見つめている。
二人に言葉はいらなかった。
どちらからともなく、二人は近づき抱擁を交わす。

「絶対いつか、また会おうな!」

そう顔面をグチャグチャにして不細工な顔で笑うマーティン(人間)。
健之介は笑顔で言う。

「約束! 嘘ついたら針千本飲ますからな?」

「はっ? なんだよそれ?」

二人は笑いあい、最後に握手をして別れた。


こうして健之介の長く、そして濃い一年は過ぎ去った。


帰国の飛行機の中。

健之介の心には、一年前にニュージーランドに行く時の様な、高揚や希望は灯っていない。
代わりに、ニュージーランドでの思い出が灯っている。

無敵だった合宿生活。

どん底に落ちた最初のホームステイ。

そして、周りの環境の暖かさ、大切さを知った牧羊地での日々。

どれも、今の健之介には欠かすことの出来ない経験だ。

そして、もう一つ、健之介の心に灯っている事がある。
これは、ニュージーランドの一年間の生活で、健之介が決めた事だ。

日本に帰ってから、まずするべきこと。

健之介の目は、その未来しか見ていない。

それなしでは、これからの生活は語れない。

健之介は自分の決意を確かめるように、ゆっくりと、そして噛みしめるように言う。

「崇に、会いに行く」

それが彼が、日本に帰った後にまず最初にすると決めた事だった。

『レベルの低い人間には、用はない』

『せいぜい優秀なお友達と仲良くしとけ』

あんな言葉が、崇との最後の会話であっていいわけがない。
健之介には、崇に言うべきことがいっぱいあった。

2009年の夏。
ニュージーランドで成長した青少年の魂は、嘗ての親友に会うために、太平洋上を時速1000キロを超えるスピードで大移動する。

それは健之介と崇が起業する、12年前の事だった。

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